ジャッキー・チェン:63歳衰えぬアクション映画への情熱 ロングインタビュー

映画「スキップ・トレース」で主演したジャッキー・チェンさん
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映画「スキップ・トレース」で主演したジャッキー・チェンさん

 世界的アクション俳優、ジャッキー・チェンさんの主演最新作「スキップ・トレース」(レニー・ハーリン監督)が1日に公開された。今作は、チェンさんが演じる香港の刑事とジョニー・ノックスビルさんが演じる米国人詐欺師が、ひょんなことから追われる身となり、世界中で逃亡劇を繰り広げるバディームービーで、「ダイ・ハード2」(1990年)、「クリフハンガー」(93年)などアクション映画を数多く手がけたハーリン監督がメガホンをとった。チェンさんに最新主演作について聞いた。

ウナギノボリ

 ◇外国人監督が中国を撮ると…

 ――25年以上前に着想したストーリーが、時を超えて完成した作品とのことですが、今のお気持ちは?

 何十年も思い続けていた夢が、また一つ完成したという感じ。何より重要なのは、皆さんがこの作品を見て喜んでくれること、楽しんでくれることだよ。

 ここ十数年くらい、自分の方向性をいろいろと変えたりして、さまざまな役柄を皆さんにお見せしたいと思ってきた。今作のストーリーは、もともと30年近く前にひらめき、当時はジェット・リーと一緒に作ろうと考えていたんだ。その後、年月が流れてしまったが、中国で撮った「ベスト・キッド」が2010年に公開されたとき、世界各国の観客から「中国って、素晴らしい場所がいっぱいあるんですね」という反応があった。「ベスト・キッド」は、そこまで中国をあちこち紹介したわけじゃないと思っていたのに、そのような反応を聞いて、僕はちょっと意外だった。

 それならば、さらに中国のいろいろな場所、そして中国の多様な文化を紹介できる作品を撮るべきだと思い、かつて考えていたストーリーを復活させようと決心したのさ。自分の国の文化は、やはり外国にどんどんアピールしていかないといけない。知られていない文化がいっぱいあるわけだからね。

 僕は日本の雑誌を定期購読しているのだけど、今まで何度も日本に行っているはずなのに、知らない光景がたくさんあって驚いてばかりだ。例えば日本で鉄道の旅なんて考えもしなかったが、(日本の雑誌を手に取って)この列車(高級寝台列車「TRAIN SUITE四季島」)が最近、運行が始まったという記事を見て夢中になったよ。何とか予約できないか頼んでいるのだけど……(笑い)。そんなふうに、どこの国も自国の文化をより多くの人に知ってもらうように働きかけるべきじゃないかな。

 ――レニー・ハーリン監督とは一緒に仕事をしてどのような印象を持ちましたか。

 レニー・ハーリンは欧州(フィンランド出身)の監督だが、外国の人が中国を撮ることは、とても面白いと思った。これまで中国人監督が中国について映画を撮っても、あまり世界的に広がることはなかったからね。例えば「ムーラン」は中国で何度も映画になっているけれど、国際的にはメジャーになることはなかった。でもディズニーがアニメにしたら、たちまち世界的に知られるようになった。中国にはカンフーやパンダなどさまざまな題材があるが、中国人が撮っても注目されない。でも外国人が撮れば、その点を変えることができる。だからこの「スキップ・トレース」も、外国人の視点が効果的だったんだ。 

 ――外国人の視点というのは、具体的にはどんな部分でしょうか。

 中国人の視点と全く違うんだ。われわれが中国を撮ると、古いものにはあまり目をくれない。でも外国人監督は、歴史や伝統が新鮮に見えて、撮ってみようという気になる。われわれが見ても何とも思わないものを、外国人の視点でうまく表現してしまうんだ。例えばモンゴルの服を着てお酒を飲むシーンなんて、僕らには普通すぎて撮っても面白いとは思わない。でも彼らにとっては違う。この解釈が正しいかどうかは分からないが、自分が考えた企画を、いろいろな監督に別の視点から撮ってもらうことで、「ジャッキー・チェン・スタイル」がさまざまに変化を遂げていくと思う。今までのように自分だけが監督するのではなく、他の視点も入ることで、それが観客にどう受け止められるか。そういうのを今回、確かめたかったのさ。

 ――「スキップ・トレース」は久しぶりのバディムービーですが、ご自身はバディームービーに特別な意識はありましたか。

 これまでの僕のバディーといえば、サモ・ハン・キンポーにユン・ピョウ、そしてオーウェン・ウィルソンやクリス・タッカーなどたくさんいるが、彼らと一緒にやってきたことは僕一人では絶対にできないことだった。「新宿インシデント」でも日本の俳優さんと共演して、それまでにない新しいものが生まれてきた。だから今回のジョニー・ノックスビルとも特別な何かが生まれたと思うね。

 ――相棒としてノックスビルさんはいかがでしたか。

 ちょっとした驚きがあったよ。ジョニーのためにスタントマンを用意していたのだけど、彼は「ジャッキー、お願いだよ、僕にやらせてくれ」と頼んできたんだ。米国の俳優は基本的に自分の体を大切にするから、自ら進んでスタントはやらない。でもジョニーの場合は、何でも自分でやっていたよ。一緒に脚本について話もしたし、とてもナイスガイだったな。

 ――共演者のファン・ビンビンはあなたと同じようにハリウッドにも進出し、日本でも知名度が上がっています。その活躍や魅力をどう感じていますか。

 美人だし、演技もうまい。そしていろいろな役柄に挑戦しようとする意欲がある。美人女優の場合、自分のイメージを壊す役をやりたがらないものだ。でも彼女は最近、老け役にもチャレンジしたりして、野心もある俳優だと思う。

 ◇マトリョーシカを使ったアクションは…

 ――今作ではさまざまなロケ地で撮影が行われたそうですが、思い出の場所はどこですか。

 ロシアでも撮影したし、それほど長く滞在しなかったけれど、モンゴルの文化は面白いと思った。モンゴルの人たちは自分たちの民族をとても誇りにしているし、彼らのお酒の飲み方がユニークだったな。(歌うシーンも)モンゴルの草原で撮ったんだ。

 広西チワン族自治区も思い出深い。ロシアやモンゴルは行ったことがあったけど、広西は今回初めてだった。建物も変わっていて面白いし、風俗や人々も面白い。例えば、「百人宴」といって、「百人」というものの、実際は千人近くの人が一緒に食事するという宴があるんだ。泥かけ祭もそうだし、歌を歌わないと道を通してもらえないとか、興味深い風俗や習慣がたくさんあるんだ。銀を使った装飾品も印象的だった。

 ――マトリョーシカを使ったアクションは、どのようにひらめいたのでしょうか。

 あれはもちろん僕のアイデアだよ。いつもそうなんだけど、映画のロケ地に行くと、その土地の工芸品にどんなものがあるかを確認する。以前、「WHO AM I?」でオランダのロッテルダムへ行ったとき、木靴を使ってアクションシーンを作ったように、今回、ロシアではマトリョーシカが有名ということで使ったんだ。

 ◇川下りのイカダのシーンで「死ぬかと思った」

 ――演じたベニー・チャンというキャラクターで、あなたに近い部分と、逆にまったく違う部分はどこでしょうか。

 僕とベニー・チャンは、まったく違うね。「ライジング・ドラゴン」「ポリス・ストーリー」「プロジェクトA」あたりの役は、結構僕と性格が似ているかもしれない。でも「新宿インシデント」や今回の「スキップ・トレース」は、まったく違う気がする。どの作品のキャラクターも、「責任感」という面は出ている。僕自身は楽天家だよ。

 ――今回のアクションシーンで最も大変だったのは?

 川のシーンでは、もう少しで溺れるところだった。ジョニーが助けてくれたから何とか無事だったけど、あの瞬間、本当に死ぬかと思った。あの川のシーンは、羊の皮を膨らませたイカダで急流をずっと下って行き、それほど急ではない地点でイカダから水中に落ちることになっていた。一回撮り終わったら、イカダを車に乗せて再び上流まで運ばなくてはならない。運ぶだけで45分くらいかかる上、何度も繰り返したので、1カット、あるいは2カット撮るだけでも、ものすごく時間がかかったんだ。

 イカダに乗ろうとする僕とジョニーが話をして、その後、彼が僕を水中に落とすというシーンだった。川の特定の場所でそのシーンを撮るつもりだったが、思った以上に急流で、イカダがどんどん進んでしまう。だから僕が乗ろうとしても、イカダに追いつけない。もちろんイカダは戻ってこない。僕が一度落とされた場所では川の水がグルグル回っていて、いっぱい水を飲んでしまった。そしてイカダも流れた先で旋回している。仕方なくそのままカメラは回っているが、本当にあのとき、死ぬかと思ったよ。

 僕の姿にジョニーも目を丸くして、竹の棒を差し出してくれた。ようやく棒に手が届いても、すべってつかめない。2回目に3本の指だけでやっと棒をつかんだのだけれど、よくあれだけの力が出たと思うな。ここで失敗したら、また上流にイカダを運んで撮り直しをしなくてはならないから、スタッフのためにも必死に頑張ったのさ。生まれて初めて「Help Me(助けてくれ)!」と叫んだ気がする。撮り終わったとき、監督は「すごい演技だった」と褒めてくれたが、演技ではなく本当に溺れかけていたんだよ(笑い)。

 ――現在、63歳ですが現役バリバリです。日常のトレーニングや食事などはどのように気を使っているのでしょうか。

 特に今までとは変えていないかな。何でも食べるよ。もちろんトレーニングは一番重要だ。体を健康に保つことだけを意識してトレーニングしている。

 ――「ライジング・ドラゴン」のころ、そろそろアクションへの挑戦を抑えようと宣言していましたが、その心境はどう変わりましたか。

 今の自分に合わせていく感じかな。自分で可能なスタントは自分でやるし、ストーリー上で必要だけど、自分では不可能なことはスタントマンを使う。自分でやり続けないと、だんだんサボろうという気持ちが増えてしまうからね。「もうやめておこう」と考えてしまうと、結局、本当に何もやらなくなってしまう。例えば空中で回転するスタントはもうできなくなっているが、自分の肉体を動かすことならまだできるので、挑戦するようにしている。

 ◇ジャッキーの「ピンチはチャンス」だった瞬間

 ――「スキップ・トレース」は中国でジャッキー映画史上、最高のオープニング記録だったそうですが、このヒットをご自身ではどう分析していますか。

 やはりコメディーとアクションを見たい人が多かったからだと思う。一昨年は3本の映画が公開されたが、その3本とも好成績を収めた。「カンフー・ヨガ」も大ヒットして、中国だけで18億元(約290億円 1元=16円で換算)を売り上げ、さらに中東やミャンマーといったところでも上映され、いい成績を残している。皆さんが好むのが、コメディーとアクションなんだ。そうはいっても、違ったタイプ、違ったジャンルの映画は撮っていきたい。今年の末には、またちょっと違うタイプの映画が公開される予定だよ。

 ――ファンは、今年のアカデミー賞の授賞式であなたが名誉賞を受けたのを見て、すごく感激したと思います。あのとき、どんな気分でしたか。

 自分でも思ってもみなかったことだが、アカデミー賞授賞式でオスカー像を実際に握ったときには、ものすごく感動した。ただ、そのトロフィーを持って帰って、棚に置いた瞬間、また新しいページがめくられた。そこからどうするかといえば、また以前の自分に戻るだけだ。

 オスカーの名誉賞は、僕が今年何をやったのか、あるいは昨年何をやったのかに関係なく、今までの57年間、何をしてきたかに対する賞だ。オスカーの審査員には僕のことを知らない人もいっぱいいただろう。この57年間、スタントマンのチームを連れて香港はもちろん、アジアをあちこち回って、いろいろな仕事をして、大きなケガもして、そういうことが積み重なっていった。そこが評価されて、審査員50人が全員一致で僕に名誉賞を与えると決めてくれたらしい。シルベスター・スタローンとも話したが、今後、またオスカーを取ろうと思えば取れる可能性はあるけれど、名誉賞は1回しかもらえない。その中でも僕が最も若い受賞者だった。この賞は、僕の仕事に対して、回りの人との関係に対して、作品に対して、そしてチャリティー活動に対しての僕の態度……。いろいろなことが評価されて、50人の審査員が評価してくれたんだ。僕はオスカーを取るために仕事をしてきたわけじゃない。今までの一つ一つの積み重ねが多くの人に評価されたということだろう。

 今こうして聞かれなければ、自分がオスカーを取ったことすら忘れていた。僕自身は自分が毎日何をするべきか、それしか考えていない。

 ――「ピンチはチャンス」という言葉が今作に出てきますが、ジャッキーさんのこれまでの人生で「ピンチはチャンス」だった場面は、いつごろのどういうときでしたか。

 僕の人生では毎回、ピンチがチャンスになっている。これまで多くのことを経験してきた。それでも毎回、順調に乗り越えてこられた。つねに意識しているのは、他人を傷つけないで、自分が楽しいと思う道を進んでいくこと。人を傷つけてしまうと、その相手も、どうやって仕返ししようかと考えてしまうから、そういうことは避けるようにしている。そして毎日、自分がやるべきことをやる。映画だけでなく、チャリティーでも自分がやれることをやる。僕はそうやって毎日を過ごしているんだ。

 ――これから「スキップ・トレース」を見る日本のファンにメッセージをお願いします。

 長い間、皆さんにお目にかかっていませんでしたが、この新しい映画を皆さんへの贈り物として、ぜひご覧いただきたいと思います。この映画自体が面白いかどうかは、自分ではなかなか言えませんけれど、一生懸命がんばって作った映画です。この57年間、皆さんの応援があったからこそ、僕は今までやってこられました。心から皆さんに感謝しています。今後も頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 <プロフィル>

 ジャッキー・チェン(成龍) 1954年4月7日香港出身。7歳のとき、全寮制の京劇学校・中国戯劇学院に入門。兄弟子サモ・ハン(洪金寶)さんや弟弟子ユン・ピョウ(元彪)さんらとともに選抜メンバー“七小福”の一員として舞台で活躍。10年の学院生活後、スタントマンとして映画界入り。コメディーカンフー映画「スネーキーモンキー 蛇拳」「ドランクモンキー 酔拳」(共に1978年)に主演し大ヒット。翌79年には「クレージーモンキー 笑拳」で初監督に挑戦。共演にサモ・ハンさん、ユン・ピョウさんを迎えた「プロジェクトA」(83年)と2010年代までタイトルが受け継がれているシリーズ第1弾「ポリス・ストーリー/香港国際警察」(85年)は世界中のファンを魅了した。 自身初の全米ナンバーワンを獲得した「レッド・ブロンクス」(95年)をきっかけに、本格的に欧米市場に参入。「ラッシュアワー」シリーズ(98、2001、07年)などで国際スターの仲間入りを果たす。 その後も「ライジング・ドラゴン」(12年)などのヒット作を連発。16年8月には米フォーブス誌が発表した「世界で最も稼いだ俳優」の第2位に選出された。携わった映画は200本以上、俳優、武術指導家、脚本家、監督、歌手、プロデューサーとして50年以上歩んできた功績が認められ、16年11月にアジア人俳優として初めて米アカデミー賞名誉賞を受賞した。次回作は「カンフー・ヨガ」。

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