宮崎駿監督:引退会見一問一答(3)高畑勲監督に「ここに一緒に並ぼうよと持ちかけた」

引退会見でその真意や今後について語った宮崎駿監督
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引退会見でその真意や今後について語った宮崎駿監督

 公開中の映画「風立ちぬ」をもって長編映画の製作から引退することを明らかにしていたスタジオジブリの宮崎駿監督の引退会見が6日、東京都内で行われた。出席者は宮崎監督のほか、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーと星野康二社長。会見の一問一答は以下の通り。(毎日新聞デジタル)

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 −−引退を宣言したわけは?

 宮崎監督:「引退宣言」をしようと思ったのではない。スタッフに「もうやめます」って言ったら、プロデューサーからそれに関する取材の申し込みをいちいち受けていたら大変ですよという話を聞きまして、(スタジオジブリの)アトリエか会議室でやりましょうかと話したら、「(入りきらないので)難しい」という話になってこちら(の会場)になったんです。それで「公式引退の辞」っていうのを書いて鈴木さんに見せたら「いいんじゃない?」って言われてコピーを(報道陣に)配った。こんなイベントをやる気はさらさらなかったんです。

 −−商業的な成功と芸術的な評価をされたことについて、映画界に及ぼした影響は?

 鈴木P:言い訳かもしれないけれど、評価とかは考えないようにしている。そういうふうにものを見ていくと目の前の仕事ができなくなる。宮崎作品に関わったのは「風の谷のナウシカ」からなんですが、約30年ずっと走り続けてきて、それと同時に過去を振り返ったことはなかった。それが仕事を現役で続けることだと思っていた。どういうスタイルで映画を作っていくのか、自分の感想としてふと思うことはあるけれど、自分たちが関わって作ってきた作品が世間にどう影響を与えたのかは考えないようにしてきました。

 宮崎監督:全く僕も考えていませんでした。採算分岐点にたどり着いたと聞いたら「よかった」って。だいたいそれで終わりです。

 −−1963年に東映動画に入ってから半世紀、アニメを作ってつらかったのは?

 宮崎監督:つらかったのはスケジュール。どの作品もつらかった。終わりまで分かっている作品は作ったことはない。どうやって映画が収まっていくかという見通しがないまま作る作品ばかりだったので、これは毎回ものすごくつらかったですね。最後まで見通せる作品は僕がやらなくてもいいと思い込んで企画を立てたり、シナリオを書いたりしました。まるで新聞連載、月刊誌のように絵コンテを書いていた。スタッフはこの映画がどこにたどり着くのか全然わからないままやっているんです。そういうことが自分にとっては一番しんどかったことです。

 −−イタリアは好きということだったが、フランスは?

 宮崎監督:正直に言います。イタリア料理の方が口に合います。クリスマスにフランスに行った時に、どこのレストランに行ってもフォアグラがでてきて、あれはつらかった。ルーブル美術館はよかったですよ! いいところはいっぱいあります。でも、料理はイタリアかな。フランスの友人に、イタリアじゃなくてフランスの飛行艇の話を作れって言われたんですが、アドリア海を飛んでいるんだから、フランスの飛行艇ではないだろうというふうな話をしたこともあります。

 フランスはポール・グリモーのアニメ映画「王と鳥」が1950年代に公開され、甚大な影響を与えた。特に僕よりも先輩の高畑監督の世代には圧倒的な影響を与えたんです。それは少しも忘れていません。今見ても、その志とか世界の作り方とかは本当に感動します。いくつかの作品がきっかけになって、自分はアニメーターをやっていこうと決めたわけですから、そのときにフランスで作られた映画のほうがはるかに大きな影響を与えています。イタリアで作られた作品もあるんですが、それを見てアニメーションをやろうと決めたわけではありません。

 でも、その2年とか1年半とかいう、この時間に考えることが、自分にとっては意味がありました。同時にあがってくるカットを見て、これはああではない、こうではないと、自分でいじくっていく過程で、前よりも映画の内容についての理解が深まるということも事実なので、それによってその先が考えられる。そういう、あまり生産性には寄与しない方式でやりましたけど、それはつらいんですよね(笑い)。とぼとぼとスタジオにやってくるというような意味になってしまうんですが、そういう50年のうち何がそうだったのか分かりませんけれども、そういう仕事でした。

 −−良かったことは?

 宮崎監督:監督になって良かったと思ったことは一度もありませんけど、アニメーターになって良かったと思うことは何度もあります。アニメーターというのは本当になんでもないカットが描けたとか、うまく風が描けたとか、うまく水の処理ができたとか、光の差し方がうまくいったとか、そういうことで2~3日は幸せになれるんですよ。短くても2時間くらいは幸せになれるんです。監督は……、最後に判決を待たなくてはいけないでしょ? それは胃に良くないんです。だから、アニメーターは自分に合っているいい職業だったと思います。

 −−それでも監督を続けてきた理由は?

 宮崎監督:半端な理由でして、高畑勲と労働組合の事務所で出会って、ずいぶん長いこと話をしました。その結果、一緒に仕事をやるまでに、どれほど話をしたか分からないくらい、ありとあらゆることについて話をしました。それで、最初に組んだ本格的な仕事は「(アルプスの少女)ハイジ」が最初。そのときに、まったく打ち合わせが必要ない人間になってたんです。相互に。こういうモノをやると言うときに何をやるか分かる人間になってしまったんです。ですから、監督というのはスケジュールが遅れると怒られるんで、高畑勲はよく始末書書いてましたけど、そういうのを見るにつけ、僕は監督はやりたくない、やる必要がない。僕は映像の方をやってればいいんだと思った。まして音楽や何やらかにやらということは全然修業もしなければ、何もやらないという人間でしたから、ある時期がきて、おまえ一人で演出をやれと言われたときには、本当に途方にくれたんです。音楽家と打ち合わせと言われても、何を打ち合わせしていいか分からない。しかも、さっき言ったように、このストーリーはどうなるんですかと聞かれても、僕も分からない。だから、はじめから監督や演出をやろうと思った人間じゃなかった。途中で高畑監督に助けてもらったこともありましたけど、その戸惑いは「風立ちぬ」にまで、ずっと引きずってやってきたと今でも思います。

 本当に、演出をやろうと思ってやってきた高畑さんの修業と絵が描ければいいんだと思ってきた僕の修業は全然違うものだと。それで、監督をやっている間も僕はアニメーターとしてやりましたので、とんちんかんなこともいっぱいあったと思いますけど、それについてはプロデューサーが全部補佐してくれました。つまり、テレビも見ない、映画も見ないという人間にとっては、どういうタレントがいるとか何も知らないんです。ですから、そういうチームというか腐れ縁があったおかげで、やれてこられたんだと本当に思っています。決然と立って一人で孤高を保っているという監督では全然なかったです。わかんないものはわかんないという。そういう人間として最後までやれたんだと思います。

 −−高畑監督については?

 宮崎監督:今日ここに一緒に並ぼうよと持ちかけたんだですが、「いやいや」と。まだまだやる気だなと。

 −−「風立ちぬ」は長編最後の作品として悔いのないものになった? 最後の場面のせりふを変えたことについては?

 宮崎監督:最後については煩悶(はんもん)した。とにかく絵コンテをあげないと、制作デスクがおそろしい。とにかく形にしようと、形にしたのが追い詰められた実態。せりふは変えられますから、冷静になって仕切り直しをした。最後の草原はいったいどこなんだろう?と考えて、ここは煉獄(れんごく)であると仮説を立てたんです。ということはカプローニもで再会するんだと思ったんです。菜穂子はベアトリーチェだ。だから、「迷わないでこっちに来なさい」ていうのが出てくる場所だ、ということを言い始めましたら、自分でこんがらがりまして、それはやめたんですね。(ダンテの)「神曲」なんかを一生懸命読むからいけないんですよね(苦笑)。

 −−自分の世界観は表現できた? 達成感は? 悔いはあるか?

 宮崎監督:その総括はしてません。自分が手抜きしたという感覚があったらつらいだろうと思いますけど、とにかく、たどり着くところまではたどり着いたと、いつでも思ってましたから、終わった後は、その映画は見ませんでした。だめなところは分かっているし、いつの間にか直っていることは絶対にないので。振り向かないように、振り向かないように。同じことはしないつもりでやってきた。同じことをしたって言われたけれど(苦笑)。

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