デビュー15周年を記念した自身初のオールタイム・ベストアルバム「歌祭文(うたざいもん)~ALL TIME BEST~」を11日にリリースした歌手の一青窈さん。今作には、「もらい泣き」「ハナミズキ」といった代表曲に加え、いきものがかりの水野良樹さん作曲による最新シングル「七変化」、岸谷香さん作曲の「パパママ」、一青版「こんにちは赤ちゃん」ともいえる新録曲「会いたかったのは僕の方」など、豪華作家陣からの提供曲や母としての思いをつづった楽曲などが収められている。現在は2児の母でもあり、出産を経て音楽的視点が広がったという一青さんに、母になった心境や楽曲制作への影響などについて聞いた。
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――改めて、母になった気持ちは?
不思議です。流れに身を任せていたら2児の母になっていたという感じで、ずっと独り身だと思っていたんです。気ままに一人旅をしたり、独身の子たちと遊んでいるのが好きだったし。友達にも「(一青さんが母になるなんて)本当に信じられない」ってびっくりされます。
――最近は、いきものがかりの水野さん、岸谷香(プリンセス・プリンセスの奥井香)さんなど、楽曲提供の作家もより幅広くなりました。出産の経験も含め、ご自身の中で志向や価値観などの変化もあったのでしょうか。
香さんに関しては、私がもうプリプリ(プリンセス プリンセス)のファンですからね。自分が出産して改めて、2児の母である香さんのライブでの歌う姿やMCの感じにすごく憧れていて。まず結婚した姓に名前を変えて、「岸谷になりました」というスタンス、かつ、歌を愛しアーティスト活動を続けていて、でもMCでは何ら育児や出産のことについて隠さず、明るくて元気をもらえる。私自身、以前は歌謡曲というか、演歌を含めてしんみりした歌や、過去に(時間軸が)伸びているものが好きだったんですけど、いわば、「子供は未来のかたまり」ですからね。子供と向き合っていて「元気になる曲っていいね」って。
水野さんにしても、いきものがかりの曲ってポップの極みというか、口ずさめて分かりやすい。それまではどちらかというと、そうじゃないマニアックなものが好きだったんですけど、出産を経て、「やっぱり王道っていいよね」っていうふうになって。水野さんに曲をお願いしたら、どんな一青窈になるんだろうっていうのを、まず自分で見てみたいと思ったんです。
――BEGINの上地等さんと島袋優さん作曲の新曲「会いたかったのは僕の方」は、お二人からのリクエストで「こんにちは赤ちゃん」の一青版として作詞されたそうですが、「こんな気持ちはじめてよ……」というフレーズに込めた思いとは? まさに子守歌にピッタリな雰囲気の曲ですが……。
実際にこの曲を子供に歌っています。産院でも自分の歌をずっと歌っていたし。そのときは「ヒトトウタ」というカバーアルバムを出した時だったので、(「ヒトトウタ」収録の)秦(基博)くんの「アイ」とかも歌ってました。「いとしい」というか、自分の命を捨ててもいいぐらい大切な存在って、それまでは恋愛(の相手)だったけれど、とはいえギブ&テイクをちょっと求めるというか。でもホントに、この子の目になり、手になり、欲しいものがあれば私の体をすべてをささげます、という感じです。
――スパニッシュアレンジのナンバー「どうしても」は、情熱的なラブソングと思いきや、実はお子さんへの愛情を歌っているんですよね。
そうですね。このときは、母親から一青窈にシフトするのが一番大変でしたね。授乳とおむつ替えがマックスの時で、何を書けばいいんだろう、みたいな(笑い)。(子供を産んだことで)書けなくなるんじゃないかとも思ったけど……書いてますね。
――デビュー当時は10年後、15年後のことは考えていなかったそうですが、これから10年先、15年先にどんな歌手になっていたいと思いますか。
森山良子さんみたいにずっと朗らかに歌い続けて、息子も成長し、楽しく音楽活動ができていたらいいなあって。
――森山家のように、お子さんも歌手になったらいいな、という思いはあるんでしょうか。
どちらかというと職人というか、やりたいことを見つけて、それを続けられる環境にいるといいなって思います。ダンナはギタリストですけど、私自身は音楽家というより“言葉を書く人”という意識が高いので、文学方向に行ってもいいし。まあ、人を悲しませない人になってもらえれば、何でも(笑い)。
<プロフィル>
1976年9月20日、台湾人の父と日本人の母との間に生まれる。東京都出身。02年にシングル「もらい泣き」でデビュー。一青さんが歌詞を書き始めたのは大学1、2年生のころ。きっかけは、慶応大学のアカペラサークルで一緒だったゴスペラーズの北山陽一さんから「『書いてみないか』と言われたこと」だったという。もともと小学生のときから詩を書いていたそうで、「(題材は)見た風景、生きることの葛藤とか。もうちょっと大きくなってくると、周りの人間の悩みや声にならない叫びを言葉に直して、スピーカーとして(発信して)いく、という感じでした。台湾語と日本語の両方を浴びている環境にいて、同じ気持ちを表していても音がこんなにも違って、でもその気持ちを共有している民族がそれぞれあって、言葉って面白いなって。言葉がすごく好きだったんだと思います」と話した。
(インタビュー・文・撮影:水白京)