平成ゲーム業界振り返り:「ニンテンドーDS」普及に見た任天堂の執念

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 今月30日で終わりを迎える平成という時代は、任天堂の家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」の絶頂期と共に始まり、ゲーム業界の成長の歴史と重なります。そこで平成のゲーム業界を、20年以上専門記者として現場で見てきたおじさんゲーマーが、今回故郷に帰るのをきっかけに、印象に残った“思い出”をちょっと振り返ってみました。第3回は、任天堂が見せた「ニンテンドーDS」を作り上げ、ヒットさせるための執念です。

ウナギノボリ

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 任天堂という会社は、おじさんから見ても不思議な会社で、一言でいえば“ツンデレ”でしょうか。独特の空気感があり、先輩記者から「門前払いを食らった」という話も聞いたことがあります。ですが本気で当たると、丁寧に応対してくれる……というのが、おじさんの持つ印象です。

 そんな任天堂ですが、執念とでもいえる異様なまでの本気度を感じたことが2回あります。どちらも2画面タッチパネルの携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」に関わっています。

 一つ目は、DSの日本での初お披露目&体験会です。個人的には「タッチペンなら高年齢も楽しめるゲーム機になるかも」と思ったのですが、発表時点のゲームファンの反応は、「2画面の意味が分からない」「タッチペンで何をするの?」といったネガティブなものでした。当時のゲーム機は、グラフィック性能をはじめハードのスペック競争真っ盛りでしたから、そういう意見が出るのも当然です。

 そして体験会の場所は、東京都の台東区にある任天堂の東京支店でした。新型ゲーム機のお披露目ですから、普通であれば、ホテルやしかるべき施設で、華々しくやるのが普通でした。不思議に思いながら足を運び、DSを体験して会場を後にしようとすると、「ちょっといいかな」と名指しされて、別の部屋に連れて行かれました。

 すると「触った感想は?」「この機能は何の用途で使いたい?」「欲しくなった機能はある?」「ゲーム(メトロイド)はどう? タッチペンの操作に違和感なかった?」など、質問攻めにされました。ゲーム機やソフトの体験会は何度も行きましたが、こんな質問攻めは後にも先にも記憶にありません。今思うと、任天堂も懸命に、そして貪欲にDSの方向性を探り、コンセプトを練っていたのでしょう。

 そしてもう一つは、DSが出て約1年後。女優の松嶋菜々子さんを起用したCMで話題になった「もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング」の発表会でした。他社ならいざ知らず、あの任天堂が人気絶頂の女優を発表会に呼んでデモをやらせたのも記憶にありませんでした。極めつきは、発表会の参加者(記者)にDS本体を配布したことでしょう。おじさんは既にDSを買って持っていたのですが、周囲には驚いた記者も多かったのを覚えています。

 確かに、長年記者をやっていると日本での知名度がない海外メーカーなどが、発表会で新型機をサンプルで配るということはたまにあったりします。しかし任天堂のようなみんなが知ってる大メーカーが高額なゲーム機を配るなんて普通ならあり得ません。どうして配布したのか。それまでの携帯ゲーム機と違ったコンセプトで設計されたDSは、見ているだけでは魅力が伝わりにくい。まず伝える立場の記者に触ってもらって魅力を理解してもらい、さらに「脳トレ」ならゲームに興味のない記者もとりこにできると確信したのです。

 そして、その作戦の結果は皆さんがご存じの通りです。DSが出たのは2004年12月ですが、最初から社会現象となるほど売れたわけではありません。DSの発売後も地道に体験会を実施し、参加者の反応からDSは触らせることが重要だと分かっていたのです。松嶋さんが参加した発表会は05年の年末で、ここでDSがブレークします。そして06年に「ニンテンドーDS Lite」が出て、人気が加速。品不足に拍車がかかったのを覚えている人も多いと思います。ともあれ任天堂は1年以上かけて、ヒットをたぐり寄せたのです。

 その後に「Wii」や「ニンテンドースイッチ」のヒットもあるわけですが、その源流は「ニンテンドーDS」の「子供も高齢者も誰もが遊べるゲーム機」というコンセプトにあります。そしてそんなDSを世に送り出した元社長の故・岩田聡さんのすごさがまだ輝いているとおじさんには思えるのです。

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