この「中原みなみ インタビュー」ページは「中原みなみ」のインタビュー記事を掲載しています。
テレビ東京の人気情報バラエティー番組「出没!アド街ック天国(アド街)」(土曜午後9時)で、井ノ原快彦さんの“相棒”となる5代目MCを務める中原みなみアナウンサー。入社3年目の抜てきということで、注目を集めているが、アナウンサーとして「等身大の自分でいること」を大事にしているという。そんな中原アナに「今、思うこと」を聞いた。
◇小学生の頃は恥ずかしがり屋で、男子から「リンゴちゃん」
2022年入社で、これまで「Newsモーニングサテライト(モーサテ)」をはじめ、報道番組を主に担当してきた中原アナだったが、この春から「アド街」以外に、朝の子供向けバラエティー番組「おはスタ」にも新たに出演(金曜を担当)と、活躍の場を広げてる。
そもそもアナウンサーになりたいと最初に思ったのは小学生の頃だったという中原アナ。
「当時、人前に出ると顔が真っ赤になっちゃって、人前で話すなんて考えられないくらい恥ずかしがり屋だったんです。周りの男子から、顔が赤くなるから『リンゴちゃん』って呼ばれて、それが本当に嫌で嫌で。自分としてはからかわれている感覚だったから、『克服したい』と思っていたとき、テレビでアナウンサーがハキハキとニュースを伝える姿を見て、『私もこういうふうにしゃべれるようになりたい』と思ったのが一番の大きなきっかけです」
当時の自分とは真逆に見えたアナウンサーへの憧れ。
「あとは2011年の震災のときに、当時小学5年で、テレビを見るとずっとアナウンサーが出ていて、『人の命を救える仕事でもあるんだ』と思って。バラエティーに出るだけじゃない、ニュースを読むだけでもない、こういうときに人の心に寄り添える仕事なんだと知って、より魅力的に感じたのも大きかったかもしれません」
憧れこそあったものの、「本当にアナウンサーになれるなんて思ってもいなかった」というのが本音。一方で、大学1年で就活を意識し始めると、憧れを現実のものにするためアナウンススクールへ。さらにBSフジで大学生キャスターも務めるなど、着々と経験を積み上げ、採用試験も無事通り、念願のアナウンサーに。小学生の頃の夢をかなえた形だが、なぜテレビ東京だったのか。
「私は報道番組をやりたくて。さらにこれからの時代、人として何かに特化していたり、強みを持ってることが大事になってくると思っていたので、報道番組をやるなら経済に特化しているテレビ東京と思いました。あと『モーサテ』は番組の裏側を配信しているのですが、それを見て『プロフェッショナルだな』と思い、ほかにはないかっこよさも決め手になりました」
◇「分からないことをそのままにしない」の教えも胸に
この春で入社から丸2年がたち「いい経験をここまで積ませていただけている」と実感する。
「報道に限らず、とにかくいろいろなお仕事をさせていただけています。1、2年目って本当にピヨピヨとしたひよっこじゃないですか、そんな中でも大きな仕事を、例えばソニーの元社長にインタビューさせていただいたり、『テレ東音楽祭』で曲振りをさせていただいたり、若手ながらいろいろとチャレンジさせていただいて。自分の中でもっとこうしたかったのにできなかった、思い通りにできなかったなど、大きな舞台に立つからこその悔しさもあって、そういうことも含めて、いい経験をここまで積ませていただけていると思っています」
投資家向けの「モーサテ」から子供向けの「おはスタ」まで、内容もテンションも180度異なる番組に携わり、番組ごとに違った役割を求められる中でも、中原アナは「等身大の自分でいること」を大事にしている。
「バラエティーも報道も配信も何でも“偽る”とバレると思っています。あと『分からないことを分からない』と言えるのってすごく大事だと思うんです。特に報道は、分からないという観点が視聴者の目線だったりもするので。自分たちが何が分からないのかが分からなくなることを避けるためにも、一回、等身大の自分に戻って、『これ分からないよね、他の人が聞いたら』という視点を持ち続けることがすごい大事なのではないかなと思いますし、そこは忘れずにいたいなって。バラエティーでも素のリアクションが大事だなと思っているので、“作らない”でいたいです」
中原アナが等身大の自分でいるために「分からないことを分からない」と言えることと共に、アナウンサーとしてもう一つ、大事にしているのが「分からないことをそのままにしない」ことだ。アナウンス部の大先輩である佐々木明子アナからの“教え”でもある。
「佐々木明子さんに一番最初に報道番組に就くときに言われたのが『分からないことをそのままにするな』でした。分からないことは分からないと、ちゃんと周りの人に聞きなさい、分からないことを恥ずかしいと思わないようにしなさいって。それは最初だからじゃなく、若手だからでもなく、何十年たっても『分からないって姿勢を大事にしなさい』って意味でもあって。その言葉はこの先も大事にしてきたいと思っています」