乙葉しおりの朗読倶楽部:第34回 宮沢賢治「どんぐりと山猫」推敲前のストーリーが知りたい

「どんぐりと山猫」作・宮沢賢治、絵・高野玲子(偕成社)の表紙(左)と乙葉しおりさん
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「どんぐりと山猫」作・宮沢賢治、絵・高野玲子(偕成社)の表紙(左)と乙葉しおりさん

 美少女キャラクターが名作を朗読してくれるiPhoneアプリ「朗読少女」。これまでに50万ダウンロードを突破する人気アプリとなっている。「朗読少女」で、本の朗読をしてくれるキャラクター、乙葉しおりさんが「朗読倶楽部」の活動報告と名作を紹介する「乙葉しおりの朗読倶楽部」。第34回は、宮沢賢治の「どんぐりと山猫」だ。

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 皆さんこんにちは、乙葉しおりです。

 お盆が明けると夏も一気に後半ですが、皆さんはどんな夏を過ごしていますか?

 思い切り遊んだ人、宿題に追われる人、趣味に熱中した人、お休みも仕事をしていた人……。

 夏バテも相まって、ちょっと疲れてくる時期ですよね。

 こんなときは一度心を落ち着けて、風鈴の音色に耳を傾けながら一句詠んでみるというのはどうでしょう?

 8月19日は「俳句の日」、そして、8月25日は「川柳発祥の日」です。

 どちらも五・七・五、わずか17文字に込められた世界の広がりと奥深さは誰もが知るところではないでしょうか。

 俳句と川柳は同じ「俳諧連歌(はいかいれんか)」から生まれたものですが、季節の言葉「季語」を入れること、「~かな」や「~けり」といった「切れ字」を必ず使う制限があるのが俳句、これらの制限がないものが川柳と言われています。

 俳句の元祖は誰か、ということには諸説あってはっきりした答えはありませんが、川柳は今から250年以上前の1757年に、柄井川柳(からい・せんりゅう)さんが始めたものなんだそうです。

 東京の台東区蔵前には「川柳発祥の地」という記念碑も建てられていますから、近くに立ち寄られることがあったら一度見てみるのも良いのではないでしょうか(^−^)

 ではここで朗読倶楽部のお話、「初めての夏合宿」4回目です。

 いよいよ私の特訓メニューを先生からいただく番になったのですが、いただいた本は神保町で買ったものではなく、倶楽部の備品でいつも読んでいる宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」でした。

 いつもと変わりない本が課題図書なら、いつもと違うのは特訓内容ということになります。

 そう……それは、「グラウンドで一人で朗読する」ことだったのです……!

 夏休み中の話とはいえ、グラウンドには運動部の練習で登校している生徒が大勢います。

 大会での私の一番の問題、それがあがり性だということは私自身一番よく分かっていましたけど、それでもこれは相当な荒療治です。

 「役者の卵や売れないアイドル歌手の駅前ライブに比べれば全然ユルい!」との部長さんの叱咤(しった)激励(?)を受けて、私は特訓を始めました。

 最初はとにかく周りの目が気になってきょろきょろしてばかり、どうにか朗読を始めてもグラウンドで掛け声が響くとびっくりして本を落としそうになり、当然流れるように読むなんて夢のまた夢、それでもなんとか読み終わって近くで録音した携帯プレーヤーを確認してみれば、自分の声を評価するどころか風の音しか聞こえなくて、声が全く出ていないことにぼうぜんとしてしまう有り様です。

 本当にこんな感じでどうにかなるのでしょうか?……と、いうところで次回に続きます。

 次回もまた、よろしくお願いしますね

■しおりの本の小道 宮沢賢治「どんぐりと山猫」

 こんにちは、今回ご紹介する1冊は、宮沢賢治さんの「どんぐりと山猫」です。

 このお話は1921年9月に執筆された後、1924年、宮沢賢治さんの生前に出版された唯一の童話集「注文の多い料理店」に収録、出版されました。

 ある秋の夕暮れ、一郎の家に「山ねこ」から宛てられた、書き間違いだらけのおかしな便りが届けられました。

 「明日面倒な裁判があるので来てほしい」と書かれたそのはがきに一郎は大層喜び、翌朝彼のもとへと出かけます。

 途中、栗の木や笛吹きの滝、白いきのこにリスと、山猫の居場所を訪ね歩いてようやくたどり着いた黄金色の草地。

 そこには「山猫さまの馬車別当(馬の世話をする人:厩務=きゅうむ=員のこと)」を名乗る、背の低いひとつ目の男。

 そして、山猫が登場すると、どこからともなくたくさんのどんぐりも集まってきました。

 果たして、どんぐりが訴える裁判の内容とは……?

 このお話を、宮沢賢治さんご本人はこう紹介されています。

 「山猫拝と書いたおかしな葉書が来たので、こどもが山の風の中へ出かけてゆくはなし。必ず比較をされなけれはならないいまの学童たちの内奥からの反響です」(原文まま)

 「いまの学童たちの内奥からの反響」という言葉は、実際に農学校で3年以上教壇に立った宮沢賢治さんならではと言えそうですが、実は農学校の先生になるのはこのお話を書いた2カ月後の1921年11月で、少なくとも作品を書いた時点では「いまの学童たち」を知らなかったことになるんです。

 でも、このお話が発表されたのは童話集の出版の時、執筆から3年以上たった1924年の12月で、本人の紹介文も同時期に書かれたものです。

 宮沢賢治さんは一つの作品を深く推敲(すいこう)することで知られています。

 「銀河鉄道の夜」を7年推敲したほどですから、このお話も数々の推敲のもとに成り立っていると考えられないでしょうか?

 残念ながら、「銀河鉄道の夜」と違って未定稿が見つかっていないために推測でしかありませんが、もし推敲前のお話があったとしたら、どう変わっていったのか、ぜひ見比べてみたいですよね。

 ※本コラムをしおりさんが朗読する「乙葉しおりの朗読倶楽部」がiPhoneアプリ「朗読少女」のコンテンツとして配信が始まりました。1話約20分で250円。

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