宮崎駿監督:引退会見一問一答(5)「この世は生きるに値するという言い伝えを受け継いできた」

引退会見でその真意や今後について語った宮崎駿監督
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引退会見でその真意や今後について語った宮崎駿監督

 公開中の映画「風立ちぬ」をもって長編映画の製作から引退することを明らかにしていたスタジオジブリの宮崎駿監督の引退会見が6日、東京都内で行われた。出席者は宮崎監督のほか、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーと星野康二社長。会見の一問一答は以下の通り。(毎日新聞デジタル)

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 −−「創造的人生の持ち時間は10年」という発言があった。監督が思い当たるのはどの10年でしょうか。またその理由を聞かせてください。また、この先10年をどうしたい? 

 宮崎監督:僕の尊敬している堀田善衛(ほった・よしえ)さんという作家がいる。旧約聖書の伝道の書をエッセーで書いてくださった。「全て汝(なんじ)の手に堪うることは力を尽してこれをなせ」という言葉があるが、その本は分かりやすく書かれているような気がしまして、その本はずっと私の手元にあります。「10年は僕が考えたことではなくて、手を使う仕事をやるとだいたい38歳くらいで体に限界が来まして、そこで死ぬやつが多いから気を付けろといわれたんです。自分の絵の先生に。じゃあ10年くらいなんだなと思った、僕は18歳のときから絵の修業を始めましたので、そういうことを考えて、もって10年と言ったんですが。

 実際に監督になる前に、アニメーションというのは世界の秘密をのぞき見ることだと思いました。風や人の動きやいろんな表情や筋肉、世界には秘密があると思える仕事なんです。それが分かった瞬間に自分の選んだ仕事が非常に奥深くて、やるに値する仕事だと思った時期があるんですよね。その次に演出をやらなきゃいけない、そんなことが起こって、だんだんややこしくなるんですけれども、その10年はなんとなく(充実したと)思い当たります。そのときに本当に自分は一生懸命やってた、今言ってもしょうがないんですけれども。これからの10年に関してはあっという間に終わるだろうと思っています。だって、(ジブリ)美術館作ってもう10年たってるんです。つい最近作ったと思っていたのに。だからこれからはさらに早いだろうと思います。ですからそういうものだろうと思う。それが私の考えです。

 −−夫人には引退をどのように伝えた? 反応は?

 宮崎監督:家内には「こういう引退の話をした」と言いました。「お弁当はこのままよろしくお願いします」って言ったら、「ふん」って言われました(笑い)。(妻から)常日ごろから「この年になって毎日弁当を作っている人はいない」って言われてますので、「誠に申し訳ございませんが、これからもよろしくお願いします」と。外食が向かない人間に改造されてしまったんです。ずっと前にしょっちゅう行っていたラーメン屋に行ったらあまりのしょっぱさにびっくりして、本当に味が薄いものを食わされるようになったんですね。

 −−「この世は生きるに値する」という言葉がありましたが、「この世」の定義はどう変わったと思うか?

 宮崎監督:自分の好きな児童文学作家で、もう亡くなった英国のロバート・ウェストールという男がいまして、この人が書いたいくつかの作品の中に本当に自分の考えなければいけないことが充満しているというか、満ちているんです。「この世はひどいものである」「君はこの世で生きていくには気立てがよすぎる」っていうせりふがある。少しも褒め言葉ではない。そんな形では生きていけないぞ、お前はっていうね。この言葉には胸が打たれました。僕が発信しているのではなく、僕がいろいろなものを受け取っているんだと思う。多くの読み物や昔見た映画とかから。僕が考案したものではないと思う。繰り返し繰り返し「この世は生きるに値する」って言い伝えを受け取った。僕がそれを受け継いでいるんだと思っています。

 −−(鈴木Pへ)ベネチア国際映画祭で引退発表をした意図は?

 鈴木P:(「風立ちぬ」の)出品の要請は直前のことだった。引退を社内で発表し、今日公式に発表するというスケジュールは前から決めていた。そこへ偶然ベネチアのことが入ってきた。宮さんは外国の友人が多い。ベネチアで発表すれば、言葉を選ばずに言えば「一度に発表できる」って考えたんです(笑い)。引退のことを発表して記者会見しようって思っていた。その方が混乱が少ないだろうと。当初は東京でやろうと思っていたけれど、ちょうどベネチア国際映画祭が重なって。ジブリからも人が行かなくてはいけないし、そこ(ベネチア)で発表すればいろいろな手続きが減らすことができる。それだけのことです。

 宮崎監督:ベネチア映画祭に参加するって正式に鈴木さんの口から聞いたのは今日が初めてです。(隣で鈴木Pが)「えっ」と言ってる。これはプロデューサーのいう通りにするしかないと思いました。

 −−「風立ちぬ」では、宮崎監督の敬愛している堀田善衛の引用「力を尽くせ」のほか「生きねば」というメッセージが登場する。堀田から受け継いだメッセージをどのように作品に込めたのか?

 宮崎監督:自分のメッセージを込めようと思って映画は作れない。自分がこちらにいかなきゃいけないと思って進んでいくのは何か意味があるんだろうけれど、自分の意識でつかまえることはできないんです。つかまえられるところに入っていくとたいていろくでもないところに行くので。自分でよく分からないところに入っていくしかないんです。映画って最後にふろしきを閉じなきゃいけませんから。未完で終わるならこんなに楽なことはないのだけれど。いくら長くても2時間が限度。それが実態でして、せりふとして「生きねば」ということがあったから、鈴木さんが「風の谷のナウシカ」から引っ張り出してきてポスターに、僕が書いた「風立ちぬ」っていう字よりも大きく書いて(笑い)。そういうことで、僕が「生きねば」って叫んでいることになっているけれど、僕は叫んではおりません。そういうことも含めて宣伝をどうやるかは鈴木さんの仕事で死にものぐるいでやっていますから、鈴木さんに任せるしかありません。

 「紅の豚」を見たイタロ・カプローニっていう人が会社の社史、飛行機の図面を書いたものをイタリアから送ってくれたんです。「いるならやるぞ」っていうメッセージつきで。それで僕は飛行機の構造を見ることができるんです。それに心を打たれまして。技術水準はドイツや米国に比べると、原始的で木を組み合わせたようなものなんですけれど、構築しようとしたものはローマ人が考えていたことだなと思ったんです。(「風立ちぬ」に登場する)ジャンニ・カプローニっていう人はルネッサンスの人だと思うと非常に理解ができて。つまり、経済的基盤がないところで航空会社をやっていくためにははったりやほらもふかなければいけない。その結果、作った飛行機が航空史の中に残っているんだということが分かって、とても好きになったんです。そういうことも今度の映画の引き金になっていますが、たまりたまったもので映画ができているものですから、自分の抱えているテーマで映画を作ろうと思ったことはありません。たまたま送られてきた一冊の本が(映画の)材料になったりするということだったと思います。

 −−堀田善衛の存在は宮崎監督にとってどういう存在?

 宮崎監督:さっきから経済がどん詰まりになってとか分かっているように言ってますけれど、しょっちゅう、分からなくなったんです。「紅の豚」のときも世界情勢のこととか分からなくなっているときに堀田さんのすかっと短いエッセーが届くんです。それは自分がどこかに向かって進んでいるつもりなんだけれど、どこに行くか分からないときに(堀田さんの著作物を見ると)ぶれずに、現代の歴史の中に立っていました。それで自分の位置が分かるってことが何度もあったんです。「国家はやがてなくなるから……」とかね。それがそのときの自分にとってどれほどの力になったのかと思うと、やっぱり大恩人の一人だと今でも思っています。

 −−「風立ちぬ」の製作に時間がかかった理由は年齢や体調以外に原因は?

 宮崎監督:「ナウシカ」も「トトロ」も材料がたくさんたまっていて、出口があったらばーっと出ていく状態だった。その後は何を作るか探さなければいけなくなったからだんだん時間がかかるようになったと思う。「ルパン三世 カリオストロの城」は4カ月半で作りました。寝る時間を抑えてでもぎりぎりまでやると4カ月でできた。スタッフ全体も若くて、同時に長編アニメをやる機会は生涯に一回あるかないかみたいなアニメーターたちの群れがいて、非常に献身的にやったからです。それをずっと要求するのは無理。年もとるし、所帯も持つし「仕事と私、どちらを選ぶのか?」と言われる人間も出てくる……(笑い)。そういうわけでどうしても時間がかかるようになったんです。

 自分が机に向かう時間は7時間が限度だったと思う。あとはおしゃべりしたり、飯を食ったりとか。打ち合わせとか指示することは仕事ではない。描くことが仕事。その時間を何時間とれるか。この年齢になると、どうにもならなくなる瞬間が何度もくる。そうすると、鉛筆を置いて帰っちゃう。片付けて帰るとか、この仕事はケリをつけてから帰ろうとか一切あきらめたんです。やりっぱなしで帰るっていうことをやって、それでも限界ぎりぎりでしたから、これ以上続けるのは無理。ほかの人にやらせればっていうのは僕の仕事を理解できない人のやり方ですから、聞いても仕方がないんです。5年かかったって言いますが、その間にどういう作品をやるかは方針を決めて、スタッフを決め、それに向かってシナリオ書くということもやっています。やっていますけれども、「風立ちぬ」はやっぱり5年かかったんです。

 「風立ちぬ」があとどう生きるかは日本の問題で……この前、青年が訪ねてきて最後のシーンで「丘をカプローニと二郎が下ってきますけれど、その先に何が待っているかと思うと、恐ろしい思いで見ました」というびっくりするような感想だったんですが、それはこの映画を今日の映画として受け止めてくれたことの証拠だろうと思って、それはそれで納得しました。そういうところに僕らはいるんだということはよく分かったと思います。

 −−(星野社長)最後に宮崎監督からあいさつを。

 宮崎監督:こんなにたくさんの方が見えるなんて思いませんでした。本当に長い間、お世話になりました、もう二度とこういうこと(会見)はないと思うので……。

 (宮崎監督、立ち上がり拍手。笑顔で隣の鈴木P、星野社長とがっちり握手して退場)

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