週刊少年サンデー:業界の伝説・手塚治虫専属の提案は「本当」 亡き初代編集長のインタビュー公開・後編

マンガ誌「週刊少年サンデー」の公式サイト
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マンガ誌「週刊少年サンデー」の公式サイト

 これまで多くのヒット作を世に送り出してきた小学館のマンガ誌「週刊少年サンデー」。今は、マンガ誌全体の部数も減る“冬の時代”だが、かつてのマンガ誌は、何もないところから黄金時代を作り上げた。そこで、同誌の初代編集長の故・豊田亀市(きいち)さんへの2008年の未発表インタビューを前後編で公開し、サンデー創刊の舞台裏を明かす。

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◇サンデー専属を断った手塚治虫

――「サンデー」創刊の際、手塚さんを専属にしようとしたという伝説がありますね。

 うん。有名な伝説だけど、本当の話なんだよ(笑い)。手塚さんに会いに行ったのは1958年の10月ころでした。

 手塚さんは一番人気があるマンガ家だったし、彼の「マンガの質」は小学館に必要なものでした。その手塚を専属にしようと。それには当時10本前後やっていた連載すべての原稿料を払わなければいけない。計算してみると、相賀徹夫社長の月収よりも多くなるんだよ。それでも社長は「かまわん」と。

 ところが、手塚さんは断った。「1日考えさせてください」と言われたんですよ。それで翌日、断られた。僕は「えらい」と思ったな。金じゃないんだね。手塚さんのプライドは金じゃない。連載の本数なんですよ。

 手塚さんはクオリティーとともに人気をすごく気にする。だからアンケートの順位なんか、ものすごく気にするし、流行や読者の意見も取り入れる。もっとも広いエリアで、もっとも人気がなければならないと。天才ならではの野心だね。

――1958年というと、手塚さんも30歳。まさしく全盛期という感じでしょうか。

 いや、当時の手塚さんは既にピークを過ぎていた。峠を越えた権威だった。ちょうど絶頂を迎えていたのは、光文社の「少年」で「鉄人28号」を描いていた横山光輝さんですよ。

 「サンデー」を始めるに当たって、部下に言いました。デッサンの悪いマンガ家は使うな。色の悪いマンガ家は使うな。インテリジェンスはあればあるほど良い。そして、とにかく面白くなければダメだと。そうなると、絞られちゃうよね。手塚さん、横山さん、寺田ヒロオさん。この3人を柱にしようというのが僕の結論だった。

 横山さんや寺田さんというのは、「巨人の星」のような勇気とか友情じゃないの。ユーモラスでしょ。「鉄人28号」の横山さんに、こちらは「伊賀の影丸」を描かせる。講談社の牧野(武朗)さんは「鉄人28号」の代わりに高野よしてるさんの「13号発進せよ」。性格の違いが出ているよね。

 寺田さんは当時、学年誌で描いていたんですよ。マンガの伝統がない小学館には、マンガがわかる人がいない。そこで僕は馬場のぼるさんら、外部に信用できるブレーンを何人か持っていたんです。寺田さんは、その馬場さんが推薦してくれた人でもありました。寺田さんと、あとは藤子不二雄ね。彼らの才能は当初から買っていた。

 寺田さんは頑固で真面目な人。一番ケンカもしたけど、一番好きなマンガ家だった。マンガ家としての魅力は、まずヒューマニズム、それから野球にとても詳しいことだろうね。

 「スポーツマン金太郎」は後から学年誌4誌に転載したんですよ。寺田さんは倍の原稿料をもらい、各編集部が支払う原稿料は半分で済む。これは学年誌を持っている小学館ならではの方法論でしょう。学年誌は読者がダブらない。「小学二年生」と「小学三年生」を両方読む子供はいないわけだから。そして、その浮いたお金で小説家の大家を起用したんです。室生犀星さんとか、石坂洋次郎さんとかね。

◇トキワ荘を握れ!

――先ほどのお話にもあったように初期の「サンデー」にはトキワ荘のマンガ家が集中していますが、これは意識してのことだったんでしょうか?

 そう、意識してのことです。寺田さん、藤子不二雄、赤塚(不二夫)さん、石森(章太郎)さんと将来性のあるマンガ家がそろっていたわけだから。

 寺田さんには創刊号から作品(スポーツマン金太郎)を連載してもらうだけではなく、ブレーンにもなってもらいました。「あなたが編集長だったら誰を大事にしますか?」と聞くと、即座に「赤塚と石森だね」と答えた。

 藤子不二雄もそうだけど、そのころは赤塚さんも石森さんも有名じゃあない。創刊する前に、彼らに8ページものを2本ずつ描かせ、引き出しに入れておきました。手塚さんが落としたら入れようと思っていた。

――赤塚さんと石森さんの原稿を? それはぜいたくですね!

 よく「もったいないですね」と言われるけど、当時の彼らはまだそんなランクにいたんですよ。なにしろ、週刊連載でしょう。売れっ子の手塚さんが落とす可能性は十分あった。手塚さんに週刊連載させるというだけで、他の雑誌からクレームつけられましたからね。

 そこで梶谷くんという副編集長に「トキワ荘を握りなさい」と指示しました。寺田さんには専属の寺田番をつけて、もちろん手塚番もいた。さらに、トキワ荘全体の担当として梶谷くん。そうやって、意識的に布陣をしいてトキワ荘の囲い込みをやったわけです。それがうまくいったんじゃないですかね。これは僕が辞めた後も、ずっと生きてましたね。

 あとは「快球Xあらわる!!」の益子かつみさん、ね。あれは誰が入れようと言ったのか、はっきり覚えてない。もしかすると、集英社に行った長野くんが僕に教えてくれたんだったかもしれない。その益子さん以外、創刊当初に起用したマンガ家はすべて僕が決めた人たちです。アメリカン・コミックも含め、マンガはずいぶん研究してましたからね。

 手塚番や寺田番などの担当を決めるのも、簡単ではないんですよ。当時はまだマンガが低く見られていたから、マンガをバカにしている編集者も少なくなかった。そういうヤツには大事な作家は任せられないでしょう。

◇「親が買ってくれる」雑誌に

――人気絶頂だった長嶋茂雄さんを起用した創刊号の表紙は有名です。

 巨人の長嶋さんと、タイガースのユニホームを着た大阪の子供ね。当時はプロ野球が盛り上がっていて、特に巨人・阪神の全盛時代だったから。それに対して、「マガジン」の表紙は朝潮関でしょ。おかしいよ。いかに創刊を急いだか、ということだろうね。

 学年誌を持つ小学館の雑誌は「親が買ってくれる」ものにしないといけないわけ。だから、ユーモラスで明るいマンガが多い。これは社風ですね。一方、「マガジン」はストーリーにこだわった。本来、売るためには「マガジン」の編集方針のほうがいいんです。

――60年代には「ギャグのサンデー」「ストーリーのマガジン」と呼ばれましたね。

 創刊して間もないころ、少しは牧野さんの方向にハンドルを切ってもいいかもなと思って、(集英社に行った)長野くんに誰を使うのがいいか聞いてみたんですよ。すると、堀江卓さんという名前を挙げた。「冒険王」などで人を鉄砲で撃ち殺すマンガを描いていた人だよ。それは小学館でやってはいけない。そこはつらいところなんだな。

 生前の藤子・F・不二雄さんが「講談社はプロットに参加してくる。小学館はサラッとしている」と言っているんです。僕はそんなことはないと思うけど、ひとつはイメージなんだな。それから、「プロット(ストーリー)のマガジン」に対して、「ギャグのサンデー」ということもある。プロットは編集者も入っていけるけど、ギャグはひとえに作家のセンスでしょう。編集者が介在できない。

 「巨人の星」的なものも、まったく考えなかったわけじゃない。ただ、実らなかった、当時は。「巨人の星」のような、いわゆるスポ根ものの元祖は関谷ひさしさんですよ。「冒険王」で「ジャジャ馬くん」などを連載していた。今でも「巨人の星」は話題になるでしょう。ああいうマンガが作れた「マガジン」はうらやましいですね。

――しかし創刊号の発行部数は「マガジン」20万5000部に対し、「サンデー」30万部。その後、数年間は「サンデー」のほうが売れていました。創刊からわずか1年前後で編集長を辞めてしまったのはなぜですか?

 新しく(1963年に)創刊される「女性セブン」の初代編集長を任されたから。「サンデー」の編集長を辞めて、編集部長になりました。

 実は「少年サンデー」を辞めた後、「週刊少女サンデー」を出そうと思ったんですよ。月刊で3~4号作って様子も見ました。でも、すぐやめてしまったの。相賀社長に「集英社で少女週刊誌を出さないか、と言ってこい」と命じられたからです。集英社で出さないなら小学館で出すと。僕が集英社の陶山(すやま)巌社長に相賀社長の言葉を伝えて、それで「週刊マーガレット」(1963年創刊)が生まれたんですよ。(伊藤和弘/フリーライター)

小学館のマンガサイト「サンデーうぇぶり」では、8日に石渡治さんのロングインタビューを掲載する。

とよだきいち 1925年、東京都生まれ。国学院大学文学部卒業。49年小学館入社。50年から「小学六年生」など学年誌の編集長を歴任する。雑誌部次長だった58年に「週刊少年サンデー」を企画し、創刊編集長に。編集担当取締役で退職。2008年の取材当時は日本ユニ著作権センター代表理事を務めていた。2013年に満87歳で没。

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