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高畑勲監督:ジブリ美術館でお別れの会 “盟友”宮崎駿監督のお別れのあいさつ全文(後編)

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高畑勲監督のお別れの会で涙を拭う宮崎駿監督(左)。右は鈴木敏夫プロデューサー

 今年4月5日に肺がんのため82歳で亡くなったアニメーション映画監督の高畑勲さんのお別れの会が15日、三鷹の森ジブリ美術館(東京都三鷹市)で営まれ、長年行動を共にしてきた“盟友”宮崎駿監督が別れの言葉を述べた。

 ◇宮崎監督のあいさつは以下の通り。

 (前編から) 何を作ればいいのか、どうやって。パク(高畑勲)さんの教養は圧倒的だった。僕は得がたい人にめぐり会えたんだとうれしかった。その頃、僕は大塚康生さんの班にいる新人だった。大塚さんと出会えたのはパクさんとの出会いと同じくらい幸運だった。アニメーションの動かす面白さを教えてくれたのは大塚さんだった。

 ある日、大塚さんが見慣れない書類を僕に見せてくれた。こっそりです。それは「大塚康生が長編映画の作画監督をするにつき、演出は高畑勲でないとならない」という会社への申し入れ書だった。当時、東映動画では、監督と呼ばず演出と呼んでいました。パクさんと大塚さんが組む。光が差し込むような高揚感があった。そしてその日がきた。長編マンガ第10作目が、大塚、高畑コンビに決定された。ある晩、大塚さんの家に呼ばれた。スタジオ近くの借家にパクさんも来ていた。ちゃぶ台に大塚さんはきちんと座っていた。パクさんは事務所と同じように、すぐに畳に寝転んだ。僕も寝転んでいた。奥さんがお茶を運んでくれたとき、僕は慌てて起きたが、パクさんはそのまま「どうも」って会釈した。女性スタッフにパクさんの人気が今ひとつなのはこの不作法のせいだったが、本人によると股関節がずれてだるかったそうだ。大塚さんは語った。こんな長編映画の機会はなかなかこないだろうし、制作期間が延びて、問題になることが予想されるが、覚悟してやろう。それは意思統一というより反乱の宣言のような談合だった……。僕に異存はなかった。僕は新米のアニメーターだった。大塚さんとパクさんは事の重大さがもっとよく分かっていたと思う。勢いよく突入したが、長編10作の制作は難航した。制作は遅れ、遅れに遅れ、会社全体を巻き込む事件になった。パクさんのねばりは超人的だった。会社の偉い人たちに脅され、泣きつかれながらも。大塚さんもよく踏ん張っていた。僕は夏のエアコンが止まった休日に一人出て、大きな紙を相手に背景原図などを描いた。会社と協定で休日出勤が許されていなくてもかまっていられなかった。タイムカードを押さなければよい。この作品で仕事を覚えたんだって。初号を見終えたときに、僕は動けなかった。感動ではなく驚愕(きょうがく)にたたきのめされていた。会社の圧力で「迷いの森」のシーンは「削れ」「削れない」の騒ぎになっているのを知っていた。

 パクさんは会社側と粘り強く交渉して、カット数からカットごとの作画枚数まで約束し、制作日数まで約束せざるをえなくなっていた。当然のごとく約束ははみ出し、そのたびにパクさんは始末書を書いた。パクさんは何枚の始末書を書いたんだろう。僕も手いっぱいの仕事を抱えて、パクさんの苦闘に寄り添う暇はなかった。大塚さんも会社の泣き落としに耐えて、目の前のカット山を崩すのが精いっぱいだった。初号で初めて「迷いの森」のヒロイン・ヒルダのシーンを見た。作画は大先輩の森康二さんだった。なんという圧倒的な表現だったんだろう。なんという強い絵。なんという優しさだったろう。初めて、パクさんはこれを表現したかったんだって分かった。パクさんは仕事を成し遂げていた。森康二さんもかつてない仕事をしとめていた。大塚さんと僕はそれを支えたのだった。「太陽の王子(ホルスの大冒険)」が公開から30年以上たった2000年にパクさんの発案で「太陽の王子」関係者の集まりが行われた。当時の会社の責任者、会社と現場の板ばさみに苦しんだ中間管理職の人々、制作進行、作画スタッフ、背景、トレースの女性たち、技術、録音、たくさんのスタッフが集まってくれた。今はない「ゼロックス」の職場の懐かしい人たちの顔も交じっていた。偉い人たちが「あの頃が一番面白かったな」って言ってくれた。「太陽の王子」の興行は振るわなかったが、もうそんなことは気にしていなかった。

 パクさん、僕らは精いっぱいあの時生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢はぼくらのものだったんだ。ありがとう。55年前にあの雨上がりのバス停でパクさんに声を掛けてもらったことは忘れない。

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