安彦良和:回顧展「描く人、安彦良和」インタビュー(1) 創作の原点 転機となった「ヤマト」「ガンダム」

安彦良和さん
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安彦良和さん

 アニメ「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザインを担当したことで知られ、マンガ家などとして活躍する安彦良和さんの回顧展「描く人、安彦良和」が、兵庫県立美術館(神戸市中央区)で開催されている。幼少期から現在に至るまでの安彦さんの創作活動の軌跡をたどる回顧展で、約1400点の貴重な資料を展示する。安彦さんに、創作の原点や転機、今後の活動について聞いた。

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 ◇自分で言うのもなんですが一貫している

 安彦さんは1947年、北海道遠軽町に開拓民3世として生まれ、大学時代は学生運動に参加。同展では、中学生の時にノートに授業の内容をまとめた“重点整理帳”。ノートに描いたマンガ「遙かなるタホ河の流れ」、同人誌「こんみゆん」などが公開されている。「遙かなるタホ河の流れ」はスペイン内戦を描いたマンガだ。安彦さんはプロのマンガ家になってから歴史、神話をモチーフにしたマンガを描くが、原点に歴史マンガがあるようだ。

 「もう亡くなった方ですが、少女マンガで活躍なさった鈴木光明さんの歴史マンガを読んだことが印象に残っています。小学3年生くらいの時でしょうか。雑誌の付録にマンガが付いていた時代です。そのまねをして、兄弟の使いかけのノートの余白にマンガを描いていました。紙のない時代でしたからね。今よりも子供たちの周りに歴史ものが多い時代でしたし、歴史マンガがポピュラーだったんです。鈴木光明さんが描いた『織田信長』が印象的でした。古本屋に勤めていた人が探してくれて、今も家にありますが、かなり内容が濃いです。とても博学で、いい加減なことを描かない方だったんです」

 「遙かなるタホ河の流れ」でなぜスペイン内戦を描こうとしたのだろうか?

 「高校時代に描いたと記憶していましたが、実は高校が終わる頃に描いたものだったようです。大学入試の直前に描き始めました。受験勉強が嫌だったんですね。動機となったのは、スペイン内戦の写真を見たことです。美少女がライフルを構えている。それが格好いいんです。胸キュンだったのでしょう。これはなんだろう?と調べ始めました。『誰がために鐘は鳴る』の映画も多分、高校時代に見たんじゃないかな? そんな影響だと思います。当時から歴史マンガを描いていたわけですから、自分で言うのもなんですが、一貫していると思いますね」

 ◇1989年のアニメ引退の理由

 安彦さんは1966年に弘前大に入学するが、学生運動に参加したことから除籍となり上京。1970年、虫プロダクションに養成所2期生として入社する。1973年、虫プロダクションの倒産後はフリーとなり、「ゼロテスター」などに参加する。大きな転機となったのが、絵コンテを担当した「宇宙戦艦ヤマト」だ。1974年に放送をスタートした「宇宙戦艦ヤマト」は、アニメブームを巻き起こし、アニメは子供だけのものではないという認識を広げた。

 「『ヤマト』に関わったことは大きかった。こういう世界もあるんだ……となった。よく言うことですが、それまでアニメーションをやっていることが恥ずかしくて、あんまり人に言えなかったんです。いい大人がやるもんじゃないという気持ちがどこかにありました。ただ、(『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーの)西崎義展という人はインパクトがありました。こんなに偉そうにしてもいいんだって(笑い)。自分はまねしないけど、あの人はちょっといないタイプでした。西崎さんの真似はできないんだけど、広いターゲットがいることが分かったわけです。『勇者ライディーン』をやっている時もスタジオに高校生や大学生の女子がくるんです。彼女たちもいいところを見てくれていたんです。その先陣を切ったのが『ヤマト』でした」

 1979~80年放送の伝説のアニメ「機動戦士ガンダム」では、キャラクターデザインとアニメーションディレクターを担当した。「機動戦士ガンダム」は今も愛される名作だ。ただ、当時は少数精鋭で制作していた。

 「当時は零細プロダクションでしたからね。戦力が乏しかったんです。少ない戦力でどこまでできるのか?とやっていました。それなりの手応えはあったので、『10年くらい記憶に残る作品になればいいな』と話したことがありましたが、それ以上になったんです」

 その後、1983年公開の劇場版アニメ「クラッシャージョウ」、1984年放送のテレビアニメ「巨神ゴーグ」、1986年公開の劇場版アニメ「アリオン」などの監督を務める。

 「『ガンダム』からアニメを10年続けていました。先日、名古屋でどまんなかアニメ映画祭というものがあって、80年代のアニメを特集していたのですが、いい切り口ですよね。80年代はアニメの大転換期でした。簡単に言うと世代交代が起きた。『ヤマト』以来、我々がやってきたことを見て、若い人がアニメ業界に入ってきた。その代表が庵野秀明さんです」

 1980年代の終わり、1989年に公開された劇場版アニメ「ヴイナス戦記」で監督を務めるが、その後、アニメの世界から離れる。同作は公開後、安彦さんが“封印宣言”したこともあって、“幻のアニメ”とも呼ばれていたが、公開30周年を迎え、安彦さんが“封印解除宣言”したことも話題になった。

 「新しい波に期待していたけど、実際に波がどっときたら、こっちが溺れて、流されてしまった。こんなに大きい波がくるとは思わなかったんです。もう自分はお呼びじゃないので、退場しました。『ヴイナス戦記』は興行的にも失敗しました。あまりにも非力でした。サンライズとずっと付き合ってきたけど、飛び出して、コスト削減のために、自分の会社でやりました。自由にはなったけど、バックアップがなくなり、孤立するとはこういうことか、俺はこんなもんなんだ……と落ち込んだんです。意地になって、見せてやらない!と封印してしまったんです」

 1989年、「ナムジ」で専業マンガ家として活動することになる。その後、歴史や神話をモチーフとしたマンガを数多く描くことになる。

 「すごく遠回りしたんだけど、気がついたら40代になって子供の時の夢がかなったんです」

 インタビュー(2)に続く

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