「『山のあな、あな』の圓歌さん死去」。23日に亡くなった三遊亭圓歌(本名・中沢円法=なかざわ・えんぽう)さんの訃報の見出しだが、どれだけの方が落語「授業中」を知っているだろうか。
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というのも、圓歌さんは歌奴(うたやっこ)から1970年に三代目圓歌を襲名した際、「もう『授業中』(「山のあな、あな」が登場するネタ)をやらないと言っちゃったから」と封印してしまった。だからある程度、年齢のいった方しか聞いたことがない「幻の名作」なのだ。
圓歌さんは「授業中」から晩年まで、ずっと売れ続けた。春風亭昇太さんは自身が出演中のドラマのタイトルになぞらえて「“小さな巨人”でした」と大先輩をしのび、放送作家の高田文夫さんは、初代林家三平さんと歌奴(歌奴)を名乗っていたころの圓歌さんを「今でいえば(ビート)たけしさんと(明石家)さんまさんのような人気ぶりだったよ」とラジオで語った。そして、弟子の三遊亭鬼丸さんは「いろんな伝説を持つ師匠。落語家で一番稼いだ人」とラジオ番組で振り返った。
古今亭志ん生、(八代目)桂文楽、(六代目)三遊亭圓生といった「昭和の名人」の名は、落語ファンでなくても聞いたことがあるだろう。だが、戦後の寄席に客を呼び込んだのは、ラジオ、そして開局したばかりのテレビで売れに売れた三平さんであり、「奴ちゃん」と呼ばれた歌奴の圓歌さんだった。ともに「師匠」と呼ばれる真打ち昇進前の二ツ目時代に、寄席でトリを取っているのも異例なこと。古典の名人と、若手の三平、歌奴は「寄席の両輪」。落語ブームの火付け役だった。
圓歌さんは元祖、型破りの落語家でもあった。黒紋付きが当たり前の時代に派手な高座着で登場し、メガネを外さず高座に上がったのも、圓歌さんが初めて。でも、圓歌さんは、初めから型破りを目指していたわけではなかった。
圓歌さんが売れるきっかけとなった「授業中」は、カール・ブッセの詩(上田敏・訳)を基にしていた。「山のあなた(彼方)の空遠く、幸い住むと人の言う……」。山の彼方の遠いところに、幸せの理想郷があるという……という意味だ。
「授業中」は学校の授業風景が舞台。先生から「読みなさい」と言われた中沢くん(圓歌さん)は吃音(きつおん)があり、なかなか読めない。「山のあな、あなあなあな……」と言いよどんだかと思うと、「あなた、もう寝ましょうよ」。ここで爆笑が起きる。すかさず先生がツッコむ。「寝ましょうよだけ、何でスッと出るんだ」と。
2002年、落語協会の会長時代の圓歌さんに「私の一作」という取材で、「授業中」について聞いた。1948(昭和23)年、二ツ目になり、歌奴に改名したころに「芸の壁に突き当たったんです。落語家をやめちゃおうと思って大阪に逃げちゃった。2週間で帰ってきちゃったけど」と明かした。逃げ出す前に友人が餞別(せんべつ)としてくれた1冊の詩集がカール・ブッセで、「山のあなた」が印象に残っていた。東京に戻り、師匠(二代目圓歌)に謝ると、「戻って来るには手土産を持ってこなければだめだ」と言われた。新しい芸を考えろ、という意味だった。
「大家さんの家にある神棚を黒板に、長火鉢を教壇に、大家さんやご隠居さんを先生に、八つぁん、熊さんを生徒に置き換えようと考えた」。授業は何をやろうか。そこで「山のあなた」を思い出した。
早稲田大学(東京都新宿区)近くの寄席、ゆたか亭で演じていたら、「すげえな、落語家のくせにカール・ブッセ知ってやがる」という声が耳に入ってしまい、「山のあなたの、が、山のあな、あなになってしまったんですよ」。
三代目圓歌を襲名し、「授業中」を封印して手がけたのが、「中沢家の人々」。振り返れば、「授業中」も「中沢家の人々」も、圓歌さんの人生を落語に置き換えていた。
東京・麹町の一等地に居を構えていた圓歌さん。前妻が病気で他界し、再婚したが、「女房は死んだけど、女房の両親は死んだわけじゃない……」。自宅に自分の両親、前妻の両親、そして再婚した妻の両親と、6人のお年寄りが集まり、一緒に生活することになったという設定で始まる喜怒哀楽のストーリーだ。
「便所が六つもある家なんて、うちぐらいしかない」など、どこまでが真実でどこまでがフィクションなのか。お年寄りに憎まれ口たっぷりの語りだったが、親への愛の裏返しの毒舌でとすぐ分かる。たっぷり笑わせて、「最近では、あなたのあの落語を聴きました。もしも我が家に一人でもあなたのような息子がいたらなと思う今日このごろです、といった手紙が来るんです」と話していた。見事に高齢化社会を先取りした落語だった。「3分でもしゃべれるし、1時間(以上)でも話せる」という「中沢家の人々」、落語ファンなら何十回、何百回聞いたことだろう。しかも飽きることがない。自分と照らし合わせながら、笑ったり、しんみりしたりできるのだ。
最後はこう締めくくっていた。「こうなったら、死ぬまでこの落語をやって、お年寄りと一緒に楽しい人生を過ごしたい。そして、いい死に方をしたいものです」。そして一句。「年老いて 万事枯れゆく昨日今日 むさ苦しさになるまいぞ夢」。さすが、本当の江戸っ子、有言実行の圓歌さん。今年1月まで寄席に出演し、この句のように人生を締めくくられた。
27日に東京・青山葬儀所で営まれた落語協会葬では、祭壇が見事に圓歌さんの思いを体現していた。多くの花で山を描き、その山の彼方に、圓歌さんが微笑んでいる高座写真が飾られていた。そして手前には、花で書かれた文字「山のあな、あな」。
悲しい別れではありながら、参列者は圓歌さんをあの祭壇とともに、これからも思い起こすに違いない。圓歌師匠は、山の彼方の遠いところ、幸せの理想郷で見守ってくれているのだと。
「中沢家の人々」は 30日午後2時からNHK・Eテレで放送される。落語の名作を録画して、圓歌さんをしのびたい。(油井雅和/毎日新聞)