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解説:小野憲史のゲーム時評 「ゲーム批評」の思い出(番外編) 「PC-DIY」の思い出

「PC-DIY」の最終号(著者提供)

 超硬派のゲーム雑誌「ゲーム批評」の元編集長で、ゲーム開発・産業を支援するNPO法人「国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)」元代表の小野憲史さんが、ゲーム業界を語る「小野憲史のゲーム時評」。今回は、小野さんも一時期参加した「PC-DIY」時代の思い出を語ってもらいます。

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 雑誌「ゲーム批評」「パソコン批評」を刊行していたマイクロデザイン出版局(現:マイクロマガジン社)と、攻略本「ポケットモンスターを遊びつくす本」を刊行していたキルタイムコミュニケーションは、(現在は不明だが、自分が在籍していた頃は)兄妹のような出版社だった。特に「パソコン批評」「PC自作派」「PC-DIY」は顕著で、各編集部のメンバーがほぼ一緒だった。4~5人の社員とアルバイトが刊行サイクルの異なる三つの出版物を編集していたのだ。

 中でも「PC-DIY」には戦略的な意味合いがあった。当時、PCパーツを購入して自分で組み立てるニーズが高まり(その方が価格性能比が高いPCが組めた)、秋葉原を中心にPCパーツショップが建ち並び、自作派のための雑誌創刊が続いた。そこで、当初から広告掲載を狙って雑誌を創刊することになった。それが「PC-DIY」で、1997年に季刊で刊行された。その後、隔月刊→月刊→隔月刊→月刊と猫の目のように刊行サイクルが変わり、2004年に休刊となった。

 これまで「ゲーム批評」「パソコン批評」をはじめ、無広告の雑誌しか編集した経験がなかったため、広告がある雑誌の編集は、さまざまな意味で新鮮だった。ひとことで言えば楽しかったのだ。片方に広告を出したい企業がいて、片方に最新情報を知りたい読者がいて、両者を雑誌という媒体で結びつける……。そこには、みんなで神輿をかついで街を練り歩くような楽しさがあった。まだインターネットの黎明期で、雑誌のニーズは今と比べものにならないくらい高かった。

 もっとも「PC-DIY」は創刊から休刊まで一貫してマイナー雑誌だった。ただし、だからこそゲリラ的に、さまざまな遊びができた。当時、パソコンショップがパーツのネット通販に乗り出していたが、詐欺まがいの店も多かった。そこでパソコンショップに一斉に見積もりのメールを出し、返事があった順に実名で掲載し、1位から3位までの店舗を取材した。これにより郊外や地方の名店が発掘でき、ショップ店長によるコラム連載にもつなげられた。

 また、秋葉原には中古パーツやジャンクパーツがあふれかえっていた。そこで極端に安いPCを組んで(OS別で1万円以内など)スペックを競うなど、メジャー誌にはできない企画が続いた。そこから転じてキワモノ筐体を自作する記事の人気が出た。あるライターが側面にXのマークがあるポリタンクをベースに「Xボックス」を作ると、別のライターが塩ビ管で骨格を作って等身大美少女PCを作ったりと、悪乗りともいえる記事が増えていった。

 こうした編集方針を象徴していたのが、「ハイエンド系お笑い自作雑誌」というキャッチコピーだった。これは「ゲーム批評」や「パソコン批評」の、業界とがっぷり四つに組んで、問題点を指摘するといった、硬派な誌面作りとは対局にあった。一方で、だからこそ面白おかしく、のびのびと仕事ができたように思う。裏を返せば、そうしたニッチな編集方針でも、業界の片隅で生息できるくらい、出版業界がゆるかった、といえるかもしれない。

 このように自分が雑誌編集者をしていた1990年代は、出版業界のピークを迎えていた。優秀な編集者とは広告タイアップ記事を取ってこれる編集者のことで、名物編集長がメディアを賑わせていた。ただし、世の中が不景気になると、企業の広告予算は真っ先に削られていく。そのとき、広告頼みの雑誌作りでは、踏ん張りがきかなくなる。大切なのは読者か、広告主か……。この選択は今でも多くの編集者を悩ませているのではないだろうか。

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 おの・けんじ 1971年生まれ。山口県出身。「ゲーム批評」編集長を経て2000年からフリーランスで活躍。2011からNPO法人国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)の中核メンバー、2020年から東京国際工科専門職大学講師として人材育成に尽力している。

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