フリーアナウンサーのみのもんたさん(67)が24日、朝の情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」(TBS系、月~金曜午前5時半~8時半)の出演後に会見を開き、「私の妻が亡くなりました。66歳でした。今の世の中の平均年齢から言いますと大変若い年での旅立ちですので、とても切ない思いでございます」と声を震わせながら話した。22日午後4時48分に、66歳でがんで亡くなった妻でスタイリストの御法川靖子さんの最期は家族全員で看取ったといい、最後に伝えた言葉を聞かれると、意識がないが耳は聞こえている靖子さんに話しかけたといい、「ゆっくり休んで。そのひと言です」と涙を流した。(毎日新聞デジタル)
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(番組終了後に、会場に登場し、あいさつ)
早朝、こういう時間にこういう形で記者会見、申し訳ありません。私事ですので、こういう会見を開くことは考えていませんでしたが、ある意味放送業界でタレントの範疇(はんちゅう)にもいる。ある程度の個人情報も開示する必要がある。大変難しいことですけれど、いたずらに世間を騒がせるのも本意ではございませんので、こういう場を開かせていただこうと、私の方からお願いしました。
私の妻が亡くなりました。66歳でした。今の世の中の平均年齢から言いますと大変若い歳での旅立ちですので、とても切ない思いでございます。
−−奥様の病気は?
がんです、最後は末期がんです。最初は皮膚病のような気持ちでいたらしいですけれど、皮膚がんという状態だった。残念ながら皮膚でとどまらず骨に転移して、(医師の話では)10年近くになるんじゃないかなというお話。言われてみれば、10年以上前から腰が痛いとか、腰痛を治療したいと、マッサージとか指圧に通っていました。でも長い期間いっこうに良くならない。歩くのも不自由で、初めて医者に行って「骨の異常」という診断で、去年の7月頃、急きょ築地のがんセンターに行って即、手術、後は抗がん剤の治療、放射線の治療を繰り返しました。
−−がんの告知は?
何日とか、そういうことは受けていません。去年の7月にお医者さんから、妻と2人で聞きました。
−−告知を受けたときに奥様にかけた言葉は?
覚えていません。
−−奥様の様子は。
覚えていません。
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−−1週間くらい前の“夏休み”に、ニューヨークに行ったということですが。
12月の末に、大変体調がいいということで、「お正月は自宅で」と一時退院の許可が出て一度自宅に戻りましたが、シャワーを浴びているときに倒れ、大腿骨を骨折、28日緊急の手術をしていただいた。1月、2月、3月順調に回復し、骨のがんも大変うまい具合に収まり、そしてピンポイントのレントゲン照射で、3月から通院でいいと言われて、とてもうれしかった。去年は夏休みを取る暇もなかったですが、今年は夏休みを取りたいとTBSの方にも話をして、彼女も先生と話をして「許可を取れそうだ。できれば少しでも早くニューヨークに行きたい」と。毎年のようにネクタイやジャケットを探しに行っていたので、自分なりにいろいろ見たいという彼女のプランがありまして、無理にお願いして、2週間取りました。(旅行は)全部彼女がセッティングして行きました。
ニューヨークに着いて、5日目までは大変元気、6日目の朝に鼻血が出て異常を感じて急きょ帰って先週病院で、残念ながら……(沈黙)。小脳の方に転移が見つかった。病院で意識を失い、ちょうど火曜日に、4時48分、永眠いたしました。
−−最期は?
家族も全員、最後まで彼女の手を取りながら、見送ることができました。私も彼女の最後の(涙を流す)……深呼吸のような、呼吸を確認できました。苦しむ様子もなく……眠っているような顔です。つらいです。
−−どんな会話を?
先生が「意識はないけれど、耳が聞こえてますよ」ということで、最後に話しかけました。
(長い沈黙)
「ゆっくり休んで」と(涙を流す)……。その一言です。
−−奥様の仕事は?
僕のスタイリストをしてくれて、僕と一緒に番組に参加する気持ちで取り組んでいました。がんは侮れない大変な病気だけれど、でも今は克服できる時代だと希望を持っていました。「誰にも言わないでほしいし、誰にも迷惑をかけたくないし、あなたと子供たちで支えてほしい。絶対に公にならないように、世間を騒がせないようにしてくださいね」と言われていました。
私は番組終わりにその日の新聞を持って、毎日病院に通う日々でした。病院も大変協力してくれて、おかげさまで誰にも気づかれなかった。「あなたはおしゃべりだからしゃべっちゃだめよ」と言われていましたね。
−−亡くなられた翌日も生放送をしたことについて。
生放送ですから、当たり前のことだと思います。僕は父も、母の死に目にも立ち会えなかった。彼女の場合ももしかしたら立ち会えないかもしれない。そのときも絶対来ないで、回復すると信じていましたから。当たり前のことです。
−−体はつらかったんですね?
そうだったと思います……。彼女は毎朝3時に起きて衣装を僕に渡し、5時半に番組がスタートすると、デスクの女性と話していた。毎日(こらえきれず涙を流す)。入院してからは病院に許可をもらって携帯電話で。療養生活なんだからやらなくていいと言ったんですが、「急に朝連絡が取れなくなったらおかしいでしょ? 自分の責任もある」って、毎朝電話で衣装のチェックをしてくれた。だからスタッフも誰も気がつかなかった。夏休みを取るまで(スタイリストを)続けていました。夏休み後は「まだニューヨークですか?」とスタッフに言われて、「うん」と答えていた。
−−ニューヨークの時間は大切な時間になりましたね。
そうですね。今、しみじみ思います。彼女が元気でいるときは、当たり前のように感じていましたけれど。まだ、3日もたっていませんけれど、喪失感は大きいです……。ちょうど50年の付き合いだから当たり前だと思っていたが、大事な存在だったんだな。僕と一緒に番組に参加する気持ちでやってくれていた(涙を流す)。日に日に強く思います。何でもっと早くに気づかなかったのかな。
−−ニューヨークの5日間でどんなことを?
彼女がどうしても行きたいと言った。2人で食べたいもの食べて、舞台を見て、画廊にも行って、欲しいと言っていた絵があった。
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−−一番の思い出は?
たくさんありますけれどね。これからもたくさん出てくると思いますし。ただね、(自宅に)帰ってきて、自分で衣装室ってあんまり入らない。入りましたら……(6月の衣装の準備まで)きれいにできてたんだ(涙を流す)。それを見たときが本当につらかったです。
あくまでも僕個人の問題ですので、一般の方々に迷惑をかけたくない。つらいです。何がって言われると、うまく言えないけれど。いとおしいなっていう気持ちが強いです。「(自分のことが)絶対表面に出たくない」って言っていたのに、こういう形になって、怒っていると思います。
今日のこの衣装は、(妻が用意した)今日のものです。7月からの僕の衣装は、とんちんかんになると思います(笑顔を見せる)。
−−いつも言っていたことは?
いつも怒られていました(笑い)。「もっと相手にしゃべらせて」とよく言われました。
−−奥様のどういうところが好きだった?
(初恋の人?)そうですね。僕は男子校で育った。(照れて)誰でも良かったんじゃないですか?
−−奥様はどういう人でしたか?
子どもは3人いますが、僕を含め4人みたいなものだった。(点数を付けるなら?)100点満点。してあげたかったことはたくさんありますね。できればもっと優しくもっと一緒にいるべきだった、いてあげたかった。
−−通夜、葬儀は?
子どもたちが「できればママの好きだった(実家の)この景色、この中でできないの?」って言うので(こらえられず涙を流す)急きょ自宅で限られた人たちに送ってもらうことになった。狭い車も入れないところなので、それでも、と言っていただける人に来てもらう。
−−奥様へ言葉を。
生きているうちに、なんで言えなかったかな。一日一日、眠ったような顔でいますでしょ? こんなにいとおしい人がいたんだなってことが分かりました(涙を流す)。