1974年、ルポライターの竹中労が企画し、大阪・フェスティバルホールと東京・日比谷野外音楽堂で「琉球フェスティバル」が開かれた。それは沖縄の音楽が広く知られるようになったきっかけとなり、今の沖縄音楽ブームにつながる第一歩だった。あれから40年、当時の実況録音などが復刻版としてリリースされ、琉球フェスティバルは今年も東京、大阪で開かれる。第1回に出演した八重山民謡の第一人者、大工哲弘さんに当時の思い出を聞いた。
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−−「琉球フェステイバル」参加のきっかけは?
参加の経緯はいたって単純なんです。僕は高校を出て沖縄(本島)に出てきたら、那覇には僕の世代、10代で民謡やってる人がいなかったんです。コザ(現・沖縄市)にはたくさんいるんですね。フォーシスターズ、知名定男、ポップトーンズ……。コザというのは音楽が息づいていて、米国が混在するチャンプルー文化の街。そこに喜納昌吉もいるわけでしょ。毎日のようにコザの民謡酒場に遊びに行って、昌吉のところに行って、本当に点々と回って。でも、いつもみんなが集まるのは普久原恒勇(つねお=「芭蕉布」で知られる作曲家でプロデューサー)さんの事務所なんですね。そこで、本土から誰か来たら歓迎したりと、ほとんどコザが中心だったんですね。そこに集まってくるメンバーが、嘉手苅林昌、山里勇吉、登川誠仁、(照屋)林助さんとか、この(「琉球フェスティバル」に出演する)メンバーですよ。そういう話が竹中労さんからあるから、みんなで行こうと。
−−竹中労さんとは、どんな人でしたか?
一言で言えばすごい人。一晩で400ページも原稿を書く人だと聞いて、えっ、僕ら原稿用紙1枚書くのにも1週間かかるのに。美空ひばりをたたえるなどハートのある面と、世の中を斬るジャーナリスト、ルポライターとして光っている面と、多面的に活躍する人なんだと子供ながらに思ってました。一番若いのが(知名)定男さんと僕で、いつも可愛がられてました。あの時に「沖縄の音楽界は定男と哲ちゃんがいれば大丈夫だ」と、おそれ多くもそんなことを言われて、本当に恐縮でしたが、自分で言うのもおかしいか、分からないけれども、そういう形で労さんのいったことのようになってきていると思うんです。ただその言葉を信じて頑張らなくちゃと、自分を励ます言葉でもあったんですね。本当に労さんの言ったようになりたいと。こう言ってくれたことはすごくうれしかった。
−−労さんの言葉には説得力があったのですか?
やっぱりこれだけ世の中を見てきているから、人の見る目があるのだろうと信じるしかなかったし、そうでなければお付き合いできないし。労さんは僕に一度、「フセイン(イラク大統領=当時)に会わすから、哲ちゃん行かんか?」って誘ったんです。それからあとになってニュースになってて行かなくてよかったと(笑い)。「向こうにもいい音楽があるからさあ、お前に聴かせたくて」とか言っていて、先輩に相談したら「行くんだったら帰って来られないという覚悟で行け」と言われて、3週間ぐらい休まないといけなくて、(当時は那覇市職員で)有給休暇もなくてお断りしたんですが。そんなハードな面も持ってましたね。労さんは、琉球フェスティバルの前から嘉手苅林昌さんの会などを渋谷のジァンジァンや木馬亭、本牧亭など小さなところでやっていて、お客さんの反応に自信がついたのでやろうとしたんでしょうね。
−−大工さんは琉球フェスティバルの前に本土で歌ったことがあるそうですが?
(五木ひろしや八代亜紀がブレークするきっかけになった)「全日本歌謡選手権」(読売テレビ)という番組があったんです(1970~76年)。僕が出て、沖縄の音楽が本土に紹介されるというのは、まずこれが最初だと思うんです。70年は沖縄返還(72年)直前で、メディアもクイズの問題に沖縄を取り上げるなど、沖縄を盛り上げようという雰囲気がありました。そういう中、「全日本歌謡選手権」に出ないかと言われたんです。今、考えれば沖縄返還の「だしに使われた」かなと。考えたくはないけど思うんです。僕はメディアを通して八重山の歌を歌う機会を与えてくれたのはうれしかったんですが。
収録中、トイレに行ったら、トイレの中で落ちた人が故郷に帰れないと号泣してるんです。プロ・アマ問わず必死だったんですね、出場者は。10週勝ち抜くとグランドチャンピオンとなってプロ歌手としてデビューできるんですが、僕は8週までいきました。9週目で落とされるんですが、その時の審査員のコメントが、僕としては「ああ、沖縄はダメなんだ」と思うことになったんです。今考えると、これぐらい沖縄を紹介したらいいじゃないかと思うのですが。
「いくら沖縄の音楽がテレビに出ても言葉は分からないし、まず言葉を変えることだね。三線もさ、民族楽器だし、沖縄の人だけに弾けばいいじゃん」と審査員が講評で言うんです。えーっと思いました。ボロクソでしたよ。ああ、本土ってこんなに壁が厚いんだ、沖縄の音楽は沖縄でしか楽しむことはできないんだと、幼いながらにして、アッパーカットを3回ぐらい食らったようなショックでした。
その後、労さんが「哲ちゃん、今は本土の人たち、分からないけれど、きっと沖縄の音楽は10年先、20年先、日本を制するよ」と。あの時の言葉もまた忘れられない。収録が大阪でしたから、終了後に道頓堀で労さんと朝まで飲んで、あんまりのショックで人生で初めて酒飲んで倒れて、労さんにかつがれたんです。本当に優しいお父さんでした。「絶対に沖縄の音楽が日本をリードする」、労さんの言葉はうれしかった。
−−琉球フェスティバルの記者会見も思い出があるそうですね?
会見では、金城睦松(ぼくしょう=伝説の唄者と呼ばれた)さんのあいさつが面白くて、「日本全国の皆さん」とあいさつしたんです。記者は「沖縄は方言を使っているから方言でしゃべるだろう」と思っていたようなんです。外国のアーチストが来たみたいな会見で、愚問だったのが「明日は皆さん、沖縄語で歌うんですか? 日本語で歌うんですか?」という質問があったんです。そうしたら、金城睦松さんだったか上原直彦さん(沖縄を代表する放送人、RBCiラジオで「民謡で今日拝(ちゅう・うが)なびら」を担当)だったか分からないけど、「皆さんはビートルズが来た時にそういう質問をしますか」と答えたんです。やっぱり自分たちの言葉で歌うわけで、外国人にはそういう質問をしないで沖縄の人にはするのかと。まだやっぱり本土のメディアは沖縄というものをこれだけしか見ていないのかと、これも大きなショックでした。(つづく)(油井雅和/毎日新聞)
<プロフィル>
だいく・てつひろ 1948年、沖縄・石垣島生まれ。八重山民謡の第一人者の唄者(歌手)。沖縄県無形文化財(八重山古典民謡)保持者。琉球民謡音楽協会会長。那覇市在住。地元・沖縄にとどまらず、国内外でコンサートを開き、全国に民謡教室を持つ。
「琉球フェスティバル2014東京」は28日午後4時、東京・日比谷野外音楽堂(雨天決行)。他の出演は、うないぐみ(古謝美佐子さん、宮里奈美子さん、比屋根雪乃さん、島袋恵美子さん)、パーシャクラブ、大島保克さん、下地勇さん、よなは徹さん、やなわらばー。司会はガレッジセール。問い合わせはM&Iカンパニー(03・5453・8899)まで。詳しくは(http://www.mandicompany.co.jp/pg255.html)。
1974年・大阪、75年・東京の「琉球フェスティバル」の模様などを収録した「竹中労プロデュース 沖縄民謡名盤10作品」は日本コロムビアから発売中。詳しくは特設ホームページ(http://columbia.jp/okinawaminyo/)。
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