立川談志さん(2011年11月死去、75歳)が長年愛した東京・銀座六丁目のバー「美弥」が、今月末で閉店する。幅広い交友関係がある談志さんが、多くの芸能人、文化人らと語らい、熱狂的な談志ファンも足を運んだ老舗バーは静かに52年の歴史に幕を閉じた。
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マスターの田中春生さん(80)は1936(昭和11)年生まれ。談志さん、ジミー時田さん(談志さんの友人だった歌手。2000年死去、63歳)、マムシ(毒蝮三太夫)さんも同い年。美弥は東京五輪の1964(昭和39)年に開店し、今年で52年。ビルの地下にあるので、静かに酒を楽しめる。
最初はホステスさんがいるバーだった。田中さんは「当時は女の子が十何人いたんだから。日劇ミュージックホールのダンサーを使ってたし」と明かす。
そんなころに談志さんが店に来た。「他の店に行ってたけど、高いから行かない。女なんかいらないから、気楽な店を、安くやってよ」と頼まれた。そして談志さんはさらにもう一言。「お客はオレが連れてくるから」
店のシステムは明朗会計。「ビールでもウイスキーでもなんでも1杯500円でやってくれって。でも、それだと店がやっていけないから、談志さんにいわせると木戸銭(チャージ・オードブル付き。現在は4000円)。それで始めたんです」という。
オードブルはキュウリのみそ和え。戦前生まれで徹底して食べ物を大事にする談志さんは、辛めのみそを半分持ち帰り、自宅でご飯のおかずにしていた。談志さんはお酒がさほど強くはないが、美弥ではスコッチウイスキー、J&Bのソーダ割りをよく口にした。それでもせいぜい2、3杯。すぐ近くの中華料理店「東生園」のギョーザや焼きそばを出前で取ることも多かった。
シャレは言ってもウソは言わない談志さん。一人で立ち寄ることもあったが、落語家や多くの友人と美弥で会い、語らうひとときを過ごした。店の壁には芸能人の名前が書かれた無数の千社札が貼られ、もう減ることのないボトルも多数残っている。
アルバムの写真を見ると、弟子でもあったビートたけしさん、故・中村勘三郎さん、和田アキ子さん、アントニオ猪木さんといった姿が。師匠の五代目柳家小さんさんや紀伊國屋書店創業者の田辺茂一さんら、既に会うことのできない友人も少なくない。
体調を崩した談志さんと、ほとんどの直弟子との「別れの場」になったのも美弥だった。亡くなる3カ月前の2011年8月、集まった弟子の前で、のどの手術で声を失った談志さんは、筆談でその場を明るく振る舞った。そして、談志さんの死が発表された11月23日の夜、入口で記者が張り込んでいる美弥には弟子が集まり、大騒ぎをして、悲しみを紛らわそうとしていた。弟子にとって美弥は、師匠のお付きの前座のころからの付き合い。談志さんとの思い出が今も残る大切な場だ。
談志さんが亡くなって5年。今も個性的な談志ファンが足を運び、「家元」の思い出話は話し出すとなかなか止まらない。そんな貴重な店も、マスターの田中さんが体調を崩したこともあり、年末で閉めることになった。
「80(歳)になってこれからやっていくのは無理。しょうがないよね。今になって、マスターがやめるならオレがやりたいって人がいっぱい出てきたのよ。でも、別の人がやってもうまくいきっこないんだから。やっぱり、終わりとなると寂しいね」と田中さん。
談志師匠にとって美弥はどんな場所だったのだろう。田中さんはこう話してくれた。「談志師匠にしてみれば、自分の家みたいな感じにしてくれたから。わがままも言ったし。でも、よかった……」【油井雅和/毎日新聞】