セトウツミ:大森立嗣監督に聞く 「2人の間に流れる“間”を大事にした」

映画「セトウツミ」について語った大森立嗣監督
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映画「セトウツミ」について語った大森立嗣監督

 俳優の池松壮亮さんと菅田将暉さんがダブル主演する映画「セトウツミ」(2日公開)は、マンガ誌「別冊少年チャンピオン」で連載中の此元和津也さんの同名マンガが原作だ。大阪のとある河原に座り、とりとめのない話を延々と続ける学ラン姿の2人、瀬戸小吉と内海想……2人並んで“セトウツミ”。映画は、彼ら2人のやり取りを中心に展開していく。メガホンをとった「さよなら渓谷」(2013年)や「まほろ駅前」シリーズ(11年、14年)で知られる大森立嗣監督に話を聞いた。

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 ◇選ぶ基準は「自分の感性」

 コミック6巻が8日に発売されたが、大森監督の元にオファーが来たのは、2巻目が出た頃。映画化するエピソードは、1~2巻の中から選んだ。選択基準は、セトとウツミの面白さが際立つよう、「外の人があまり主役になり過ぎていない回」だった。そして、「映画に向いている回」だという。例えば、原作にはゴリラ顔の先生のエピソードがあるが、「笑いの質がちょっと違う」と映画からは省いた。

 なぜなら、「セトウツミ」という原作が基本的に持っている笑いの要素は、大森監督によると、「2人のずれ」や「言葉の使い方のような独特のセンス」にあるからだ。代表的なのが、映画でも使用している「ツール・ド・フランスの観客ばりに」というせりふ。「ああいうのは、爆笑はしないけれどクスッとしてしまう。でも、“ゴリラ”になると顔芸みたいなギャグになっちゃう」と映画とマンガの笑いの質の差を説明する。

 とはいえ、監督がいう「独特のセンス」は、分かる人には分かるが、分からない人には分からない危険性がある。そういうとき大森監督は「自分の感性」で選ぶという。「お客さんがこう思うということは、俺はあまり考えない。自分が面白いと思ったものを選んでいきますね」と言い切る。「万人がどう思うかということは、分からないですよね。それを考えると、だんだん平たくなっていっちゃうというか、分かりやすい方に行くというか。そうなっていくと、ちょっと俺の仕事じゃないなと思っちゃうところはありますね」。その言葉に監督としての自負がのぞく。

 ◇「やっぱり力がある」と実感させた2人の演技

 物語を引っ張るのは、ウツミ役の池松さんと、セト役の菅田さんだ。2人とは初めて組んだ。監督をオファーされたとき、すでに2人は決まっていた。「やっぱり、いい俳優たちなので、1回仕事をしてみたい」と思ったという。実際、やってみて「やっぱり力があるなと感じた」という。

 舞台は大阪。せりふは関西弁。セトとウツミのやりとりが漫才の掛け合いのようになるのは避けたかったという大森監督は、池松さんと菅田さんに「漫才にはしないでほしい。ちゃんとお芝居で何かを感じて、感じたことを返してほしい」と伝えたという。演じる俳優の“感性”を信じているからだ。

 もちろん、俳優が、自分の思うところからかけ離れた演技をしたら修正する。その一方で、例えイメージしていたものと違っても、「それで成立していれば、役者がやってきたことをオーケーにする」。なぜなら、「基本的に監督は頭で作っているんですよね。俳優は、肉体を持ち込んで、その場で感じながら芝居をしている。そのことを大事にしたいといつも思っている」からだ。

 ◇キャラクターが原作と違っても構わない

 その言葉を裏付けるように、撮影中は、池松さんと菅田さんの演技を採用することがほとんどだったという。いくつか例を挙げてもらうと、夜、セトとウツミが2人で花火をするシーン。ウツミは、多くにおいて、表情を変えず、淡々とセトとの会話をこなしているように見える。大森監督は「このままじゃ、ウツミのキャラクターが、ちょっと固まっちゃうというか、奥行きが見えなくなっちゃうし、絶対、池松君も損しちゃう。映画も、あんまり(原作の)キャラクターに引っ張られ過ぎてもまずいと思った」ことから、池松さんに、スマートフォンのライトを利用するよう助言したという。すると翌日の撮影で池松さんは「急に(映画に出てくる)ああいう芝居をしてきて、ちょっとキャラクターが違う感じになっちゃってるんですけれど、俺はもうそれ、全然いいなと思って」と語る。

 一方、「菅田っちはね、最初、マンガを読んで、関西弁でぼそぼそしゃべっていけばいいんですかね、みたいなことを俺に言っていて、俺も、ああ、いいんじゃない、なんて言っていたんだけれど、実際、現場に入って芝居したら、『これ、ぼそぼそ無理ですわ』って。俺、ほんとは、ぼそぼそ無理だってことは気づいてたんだけど(笑い)。あの弾けキャラでやるのは、菅田が自分で発見したんです」と菅田さんに花を持たせる。

 ◇「俺が撮ると明るくなり切れない」

 八つのエピソードで構成された今作。オープニングと幕間にアコーディオンの曲が流れる。選曲の理由は「なんかちょっと、タンゴを使いたくなって。なんとなくなんですよ(笑い)」。大森監督いわく「アコーディオンでタンゴの曲調って、明るいけれど、やっぱりどこか寂しさみたいなものが漂う」といい、「そこが、この話にちょっと似ているのかな……というか、俺が撮ると、やっぱりそういうふうになっちゃう。明るくなり切れない」と頭をかく。

 そういえば、大森監督が過去に手がけた作品は、今作にせよ、「さよなら渓谷」にせよ、主人公たちは何かを背負っていたり、引きずっていたりする。「(作品)本数が増えてきて、意識的に強く思っているわけではないんだけれど、自然とそうなっているなという感じはあります。『まほろ』でさえ、大根(仁監督)ちゃんが撮るとああいうふう(13年のテレビドラマ『まほろ駅前番外地』)になって、俺が撮るとちょっとこう……みたいな(笑い)。そういう何かは感じますよね」と認める。

 ◇「隙間みたいなものを描きたくなる」

 その上で「最初に俺、菅田に『自分が言いたくなったらせりふを言いな』って言ったんです。(菅田さんと池松さんの)2人が空気をずっと作って、ほんとに風がふわっと吹いて、菅田が、何かのタイミングで、『そういえばな』って言い出す“間”というか、2人の間に流れる“何か”は大事にしようと思っていたんですよね。2人が明るくワーッとやっている部分と、そっぽを向いている部分。そういう“表”と“裏”があって、映画って、基本的には表の部分を描いていく感じがあるんだけれど、少し裏というか、隙間みたいなものを描きたくなっちゃうんですよね」と自身の性質を説明する。

 そういった“隙間”が奏功し、なんともいえないおかしみを醸し出す「セトウツミ」。それが大森監督にとってどんな位置づけの作品になったのかを聞くと、「どういう位置づけになるんでしょうね。そういうのは多分、公開されて、人が判断することじゃないですか。俺としては、いつもとやっていることは変わっていないんで」といたって冷静に語る。そして、「やっぱり、映画を作るとき、俳優と向き合うってことが、一番大事だと思っているんですよ。それは、俳優は違うけど、『まほろ』でも同じだし、『さよなら渓谷』や『ぼっちゃん』(12年)をやったときもそうだったし。だからあんまり……」といったん口をつぐみ、答えを探すような素振りを見せたものの、結局は「まあ、どうなんですかね。どういうふうに思われるのかな。全然分かんないですよ(笑い)」と冷静さを貫いた。映画は2日から全国で公開中。

 <プロフィル>

 1970年生まれ、東京都出身。大学入学後、8ミリ映画を制作。俳優として舞台、映画などに出演。自らプロデュースした出演作「波」(2001年)で第31回ロッテルダム映画祭最優秀アジア映画賞を受賞。「ゲルマニウムの夜」(05年)で監督デビュー。以降、「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」(09年)、「まほろ駅前多田便利軒」(11年)、「ぼっちゃん」(12年)、モスクワ国際映画祭審査員特別賞受賞作「さよなら渓谷」(13年)、「まほろ駅前狂騒曲」(14年)と続く。前衛舞踏家で俳優の麿赤兒さんは父。弟は俳優の大森南朋さん。初めてはまったポップカルチャーは「一番好きになったのはなんだろうなあ……」としばし考えてから「(テレビアニメの)『マジンガーZ』とか見ていたな。当時の『天才バカボン』とか結構好きだった。『ゲゲゲの鬼太郎』とか『タイガーマスク』とかもすごく好きなんですけど。あと、『ルパン三世』とかね」と話した。

 (インタビュー・文・撮影/りんたいこ)

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