大橋巨泉さん:名人戦を“特別記者”として取材 在りし日の素顔

「名人戦の観戦記を書くのが念願だった」という大橋巨泉さん(左)。前夜祭から4日間にわたり、特別観戦記者として精力的に取材にあたった。写真は、毎日新聞のメモ帳を手に観戦の合間、副立会の杉本昌隆七段と談笑する巨泉さん=2007年5月7日、三重県鳥羽市で油井雅和撮影
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「名人戦の観戦記を書くのが念願だった」という大橋巨泉さん(左)。前夜祭から4日間にわたり、特別観戦記者として精力的に取材にあたった。写真は、毎日新聞のメモ帳を手に観戦の合間、副立会の杉本昌隆七段と談笑する巨泉さん=2007年5月7日、三重県鳥羽市で油井雅和撮影

 人気番組の名司会で知られる大橋巨泉(おおはし・きょせん、本名・大橋克巳=おおはし・かつみ)さんが12日、急性呼吸不全のため亡くなった。生前、大橋さんを取材した経験のある記者が在りし日の大橋さんについて語った。

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 永六輔さん(83)の後を追うかのように、大橋巨泉さん(82)の訃報が20日、伝えられた。お二人とも、ラジオ、テレビで活躍し続けてきた「憧れの大人」だった。取材で何度もお会いできたのは幸せだった。

 巨泉さんが出演した数多くの番組の中でも、特に思い出されるのは、子供の頃、親に隠れてこっそり見た「11PM」(日本テレビ)。子供にはまだ早い“大人の世界”は衝撃的だった。

 「11PMは報道もやってきたんですよ。沖縄とか……」。巨泉さんと沖縄の話をしたことがある。「11PM」はお色気、軟派ばかりではなかった。生放送だったので、その日の時事ニュースに合わせて予定を変更して緊急テーマで放送することもあった。そして、社会問題に直球で迫る企画もあり、特に巨泉さんは沖縄にはこだわった。

 「僕は沖縄に行けないんです」と巨泉さんから聞いた時には驚いた。テレビでは北野武さんの番組に「出てやる」と言って笑わせるなど、上から目線を演じていた巨泉さんだが、戦争体験を忘れず、実は弱者への目線を大切にする人だった。戦争で多くの人が犠牲となり、「本土並み返還」がいまだに達成されていない沖縄に「どの面下げて行けますか」という思いからだった。お元気なうちに一度、沖縄の今を見てほしかった。

 「11PM」もそうだったが、巨泉さんは我々にはなかなかできないことだが、やりたいことをやる人だった。参議院議員になったのも、そして自ら辞職したのも、自分の意志を曲げない大人だから。永さんもそうだが、そういった江戸っ子気質の大人が、またいなくなってしまった。

 巨泉さんと奥様の寿々子さんと一緒に旅ができたのも楽しい思い出だ。2007年5月、三重県鳥羽市で行われた将棋の第65期名人戦第3局。森内俊之名人と郷田真隆九段の対戦に、いわば「特別記者」として、毎日新聞は巨泉さんに観戦記をお願いした。私は巨泉さんご夫妻をフォローする役だった。

 当時の巨泉さんは最初のがんを患った後で、胃を摘出したため、食事は多く食べられない。食事の時には奥様が横に座り、巨泉さんを手助けし、巨泉さんが少しずつ料理を口に運ぶ、仲むつまじい姿を覚えている。

 巨泉さんは早稲田大学の新聞学科出身。卒業はしておらず、「早稲田は中退が評価される」といわれる有名人の一人。もしかしたら、新聞記者になっていたかもしれない。名人戦取材では、巨泉さんに使ってもらおうと、毎日新聞の名前が入っているメモ帳とボールペンを用意した。お渡ししたら、メモ帳を片手に将棋盤の局面を見たり、棋士の話を聞いて取材していた。その姿も様になっていた。巨泉さんにとても喜んでもらったのはうれしかった。

 永さんも巨泉さんも、最期までカッコよかった。永さんがラジオにこだわったように、巨泉さんも週刊誌の連載を最後まで続けた。この夏は、お二人の残された作品にもう一度触れて、戦後を自らの足で歩んできた大人の生き方とは何か、考えてみたい。(油井雅和/毎日新聞)

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