コミケ:2020年の五輪開催問題も好機 市川孝一共同代表に聞く平成回顧(中編)

2012年12月30日午前11時ごろ、脅迫によって「黒子のバスケ」の同人誌900サークルの出展を見合わせ、閑散とした「コミックマーケット83」の一般ブースの様子。
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2012年12月30日午前11時ごろ、脅迫によって「黒子のバスケ」の同人誌900サークルの出展を見合わせ、閑散とした「コミックマーケット83」の一般ブースの様子。

 日本最大の同人誌即売会で、平成最後の「コミックマーケット(コミケ)」となるコミケ95が29日、東京ビッグサイト(東京都江東区)で開幕した。平成元年(1989年)に起きた連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤元死刑囚がコミケのサークルに参加していたことからの世間のバッシングを浴び、1991年の「有害コミック」問題という危機もあった。激動だった平成のコミケについて、市川孝一共同代表に振り返ってもらった。(前編から続く)

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 ◇共同代表就任のきっかけは「有害コミック」問題

 ――宮崎事件が最も印象に残っているかと思いました。

 宮崎事件でコミケは確かにバッシングを受けていましたが、世間もショッキングだったし、我々もショッキングでした。しかし「有害コミック」問題は、オタクのマンガだけがやり玉に挙がっただけに、それ以上にショッキングでした。ですが、同人誌の確認を導入したことで、コミケに誰もが来られるようになったんです。

 ――もしかして一歩間違えると、コミケがなくなる可能性があった?

 潰れる意識もありましたね。ですから、先代代表の米澤(嘉博さん)もこの問題は本当によく考えたと思うし、実際に私ともその話を本当にしましたね。コミケは継続することが理念なので、規模を求めるよりも「絶やさない」ことを優先しました。また「有害コミック」問題がないと、私は代表になっていなかったと思います。

 ――どういうことでしょうか。

 これはコミケの思想的な問題なんです。コミケをなぜ続けるのか。その考え方を米澤と長い間話して向き合いました。スタッフは楽しいことが大事なんですが、責任者(共同代表)は「なぜコミケを続けるのか」をきちんと考えないと、精神的に折れちゃうんです。心が折れないためにはポリシーが必要で、折り合いを付けることを学びました。先延ばしをしても何とかして問題を乗り越えていく“米澤戦法”ですね。

 ◇平成のコミケは「伸」

 ――宮崎事件の後で来場者が増えたとのことですが、その後に激増したタイミングはありましたか?

 会場が東京ビッグサイトになるコミケ50ですね。コミケ49は22万人でしたが、コミケ50では35万人に膨れ上がりました。会場が変わってキャパシティー(容量)が増えると来場者が一気に増える傾向があります。ビッグサイトに会場を移したのも、一つでも多くのサークルを増やしたかったからです。1996年からビッグサイトを使っているので、もう20年以上になりますね。一番長く使っている会場なんですよ。

 ――他にも大変なことはありましたか。

 米澤からの代替わりで3人の共同体制になったこと、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に二次創作を適用(著作権侵害の非親告罪化)する動きがあったこと、「黒子のバスケ」の脅迫事件、コミケに手投げ弾を投げ込むというネットの書き込みもありましたね。

 ――そんな平成のコミケを漢字一文字で例えると。

 「伸」でしょうね。いろいろありましたが、参加者もサークルの数も伸び、我々の技術も伸びました。激動もあったのは確かですが、それも我々にとっては良い方に伸びたと思っています。

 ――2020年の東京五輪開催の年は、時期変更という難題が待ち受けます。

 五輪開催は、コミケにとってさまざまな問題があるとは思いますが、終わればビッグサイトは大きくなるからサークルももっと入るし、冷暖房がしっかり効くようになるかもしれない。近隣にはホテルもできますし、館内の看板も増えて、外国人の来場者もこれからは先は増えるでしょう。それはコミケの来場者が増えることも意味しています。五輪でコミケは大変ですが、その先に明るい未来があると思って、引っ張っていくのが大事だと思っています。(後編へ続く)

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