フリーアナウンサーでグラビアでも活躍する塩地美澄さん。秋田朝日放送を退社し、フリーに転向してから8年が経過した。「自分では、アナウンサーがグラビアをやっていることを強みと思ってはいるのですが、当初『アナウンサーがグラビアをやっていていいの?』という声も実際あって、自分の気持ちがそういった声に反応してしまうときもあった」と過去の葛藤を明かす。一方で、“二刀流”での活動を「胸張って言えるようになってきた」とも話す塩地さん。その大きなきっかけとなった昨年末のカザフスタンでの経験を振り返ってもらった。
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塩地さんは昨年12月、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から宇宙旅行へと向かう、日本人実業家・前澤友作さんのロケット打ち上げの瞬間を現地から生中継リポートした。
「今でも現実だったのかと思うことばかりで、夢のような瞬間でした。鳥肌オブ鳥肌というか(笑い)、全身鳥肌で、身震いしましたし、この先あるかないかって思えるくらいの経験」
リポートするにあたっては、宇宙(または宇宙旅行)について、「地上から何キロメートルからを『宇宙』と言うのか?」というところから調べて、学んでいったという塩地さん。
「どこから手をつければいいのか分からないくらい、知識がなくて。プレッシャーもありましたし、毎日頭を抱えるくらい大変でした(苦笑)。でも、宇宙飛行士の山崎直子さんにオンライン講義を開いてもらって、打ち上げに関する最低限の知識を教わって、そこからちょっとだけ見えてきました」
中継では、人類初の有人宇宙飛行に成功したユーリ・ガガーリンが同じバイコヌール宇宙基地から飛び立った話など、宇宙旅行の歴史を交えてリポートした。
「結局、アウトプットできる量ってインプットに比例するし、知識があるのとないのとでは、自信も違ってくる。ガガーリンの話は、それを知った上で皆さんに(打ち上げを)見てもらいたくて、自分から入れた部分、勉強の成果ではあったのかなって思います。でも精神的に張り詰めた日々でしたし、どこまでうまくできたのだろうかと、今でも振り返ったりします」
打ち上げ当日の気温はマイナス5度。自分の姿が映るモニターもなく、音だけが頼りの状態で、本番では電波が混乱する悪条件の中での生中継リポートだった。
「中継は4回機会があったのですが、1回目を『1分半きっかりにまとめて欲しい』というオーダーがあって、ものすごく緊張してしまったのですが、その分、ものすごいアドレナリンが出たんです。異国の地で寒さの中、音もよく拾えない、自分の姿も確認できない、これまでのアナウンサー人生で、こんな悪条件の中でのリポートはなかったぞ、と(笑い)。結果、中継では滞りなく、役割をこなせたのですが、あらゆることが想定外で、経験値がすごく上がったと思います」
打ち上げの瞬間は、「気づいたら飛び上がって、泣きそうになっていました」といい、「光よりも音と振動がすごくて、打ち上がる瞬間、地面から伝わってくる重低音に身震いして、鳥肌も立ちましたし、最後、ロケットが雲に吸い込まれていくとき、『バリバリバリッ!』と聞いたことのないような音が鳴って、そこでさらに震えが来ました」と今でも記憶に深く刻まれている。
カザフスタンでの貴重な経験を経て、今年の春でフリー転向後、丸8年が経過した。
今後に向けて「活動内容はむしろ変わらなくていいとは思うのですが、もっと自分のことを知ってもらいたいですし、グラビアをやりながら、アナウンサーのお仕事をもっと突き詰めて、より知っていただける機会を増やしていきたい」と意気込んでいる。
また、「ようやく肩の荷が下りてきた」と正直な気持ちを明かす塩地さん。
「自分では、アナウンサーがグラビアをやっていることを強みと思ってはいるのですが、当初『アナウンサーがグラビアをやっていていいの?』という声も実際あって、自分の気持ちがそういった声に反応してしまうときもありました。ただこうやって長く続けることで、評価してくれる人も増え、自分の活動に自信が持てて、胸張って言えるようになってきたという意味で、肩の荷が下りてきたっていうのもあります。自分は自分と、ほかと比べずに、一つ一つ向き合ってやっていこうって思えるようにもなったのも、カザフスタンでの経験があったから。ロケットが打ち上がった瞬間、そういった気持ちが全部、晴れたのかなって」