知名定男さんは戦後の沖縄音楽界の最前線を歩んできた大御所。40年前の「琉球フェスティバル」、プロデュースをした竹中労さんの思い出、そして「筑紫哲也ニュース23」のエンディングテーマに使われた「ネーネーズ」の名曲、「黄金(こがね)の花」の秘話などを聞いた。
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−−竹中労さんに最初に会った時の印象はどうでしたか?
彼は当時、結構著名な人でした。最初は音楽評論家なのかと思ってました。あるところで歌っていたら、いきなり「いよっ、元天才少年」って声を掛けるんですよ。それから、ちょっとずつお近づきになるに従って、彼がイデオロギーの強い人だと分かりました。中近東に行って書きものをして、社会的にもモノ申すという人。交友関係もくせ者ばかり。たとえば大島渚さんや川内康範さんとか。出版祝賀会には小沢昭一さんや永六輔さんがいましたね。でも川内さんとは思想が違うはずなのに……と思ったけれど、これがすごく親しいんですね。幅広い人なんだと思いました。
−−40年前の琉球フェスティバルの思い出を。
ビックリしましたね。日比谷野外音楽堂はいきなりキャパ4000人で野外ですから。エイサー大会の余興で闘牛場でやったことありましたが、せいぜい200~300人ですよ。人が集まるんだろうか。よくそんな企画を立てたなあと。でも竹中労さんは、いつしか沖縄にのめり込んでしまっていて、嘉手苅林昌さんや大城美佐子さんにドップリになってしまって、ここまできたならやるかあ、といった決意だったんでしょうね。今考えても大冒険でしたよね。普通の事務所ならやりません。まだあの頃は、沖縄(出身)を伏せて、ちょっと肩身の狭い暮らしをしていた人がいました、「あんた沖縄もんか」と言われてしまう。だからお客さんは沖縄の人が多かった。指笛の数とかカチャーシーの手の振りを見て分かります。ヤマトンチュー(本土の人)は手の振りがぎこちないですから。でも、舞台に出た直後に手応えを感じました。お客さんがかぼちゃ畑のように広がっていて、びっくりしましたよ
−−その頃の知名さんは、毎日どんなことを考えてましたか?
なんにも考えてないです。とにかく、民謡が隆盛を極められる時代が続いてほしいという気持ちだけでした。それまで民謡歌手としては順風満帆でした。テレビ局の大きなイベントには必ず駆り出される、いわゆる“エリート街道”を突っ走ってきたんですよ。でも、古典のスタンダードでは先輩をしのぐことはできない。あの人たちをしのぐには新作しかないと。
−−そこで「バイバイ沖縄」が生まれた。
あれは32歳の時ですね。中央志向の時代が沖縄にもありました。若い人たちは中央に志向していくわけです。中央のものがいいんだという価値観が芽ばえてくるわけです。そこにはとても危機感を感じましたね。やっぱり足元にある自分たちの光り輝いてる文化を、見つめ直す必要があるんじゃないかと。喜納昌吉とか、よく我が家に来て、将来論を語り合ったものです。新曲をやるからにはドキッとするサウンド作りをしたいと思って、アレンジャーは邦楽を一切やらない人に頼んだんです。ゴールデンハーフ・スペシャル などを担当していた中村弘明さん(故人)です。そうしたら、中村さんはレゲエでやりたいと。「ボブ・マーリーのライブを見た時、あのリズムで島唄を歌っていた。あれこそアイランドミュージックの原点だ」と、言われました。まだミュージシャンがレゲエってなんですか?と聞く時代です。録音の前にボブ・マーリーをかけまくって、あのリズムの高揚感を若き日の後藤次利などミュージシャンに伝えてから録音をしました。「バイバイ沖縄」は変なタイトルだ、と批判もされましたが、そこそこ注目されました。沖縄の泡盛会社がCMに使ってくれて、小学生たちがよく歌ってました。
−−ネーネーズの「黄金の花」はどういう経緯で「ニュース23」に使われたのでしょうか?
筑紫哲也さんが朝日新聞(沖縄特派員)にいる頃、森口豁(かつ)さん(沖縄をテーマに取材を続けるジャーナリスト)に紹介されたのが最初の出会いです。「ゆく年くる年」の沖縄からの生中継、進行役が筑紫さんで、僕と大工(哲弘)が生で歌ったこともありました。それからしばらくあって、筑紫さんが「ニュース23」をやるようになって、たびたび沖縄からの中継がありました。沖縄国際アジア音楽祭のステージで大田昌秀さん(元沖縄県知事)と筑紫さんの対談があり、その後、音楽祭が始まるんです。そこでネーネーズが、まだCD発売前でしたが「黄金の花」を歌いました。筑紫さんは、ステージの裾で聴いていて、涙がボロボロ止まらなかったという話を後で聞きました。それで「ニュース23」のエンディングテーマにと決まったそうです。あのエンディングテーマは何百曲と集まってきてみんなで侃々諤々(かんかんがくがく)議論するそうですね。でも筑紫さんの「鶴の一言」で決まったそうです。「ニュース23」は筑紫色満タン、沖縄満タン、普通ならニュース番組であそこまで沖縄を取り上げませんが、筑紫さんはあそこまで沖縄を取り上げてくれましたからね。
−−「黄金の花」はこれからも歌い継がれると思いますが、知名さんのこの曲への思いをお聞かせください。
やっぱり根底にあるのは、自分たちの暮らし、自分たちの足元を見つめ直そうよということだと思います。(作詞の)岡本(おさみ)さんはこの曲に相当時間をかけたそうです。東京はどこに行っても外国人がいて、日本にみんな出稼ぎにくる、でもそれは何かちょっと違うのでは。アジアの人にこの曲を歌ってほしいと考えていたそうですが、ネーネーズのライブを見て、歌ってもらおうと思ったそうです。あの優しいボーカルで、たおやかに歌ってもらうのが一番いいということで、歌詞が送られてきたんです。びっくりしました。歌詞を見て、すぐ曲が付いてました。
−−曲を作る時に知名さんが考えることはどういうことですか。
かつてあったもの、というのが結構あるんです。暮らしでも文化でも歌でも食べ物でも。それがだんだんなくなってきているわけです。僕は歌を作る時に、車を走らせるんです。気になったところで車を止めます。そうすると、時にその風景や空気が僕に訴えてきて、曲のテーマやメロディーが浮かぶんです。やはり海や山の大自然に触れると、新聞紙上をにぎわしているものも感じますね、どうしても。でも、プロテストソングのようなものはやりたくない。柔らかく訴えなきゃいけないのかなあと。かつては青い海だったのが赤くなっていたりすると、なんとか元に戻らんもんかなあという素朴な気分になりますよね。だからといって、「基地反対」とか「自然を残そう」という言葉をそのまま使うのはちょっと抵抗がある。僕は自分の歌が、僕が作ったと思ってない、思えないんです。昔聴いた歌が僕の引き出しからポーンと出てきて、蘇生というのでしょうか、この自然が、土地が僕に与えてくれたと。
昔の芸能をそのまま正しく引き継ぐという動きがありますが、僕はあまり賛成じゃないんです。なくなるものはなくなってしまえ。その代わり、どこかで必ず時代を変えて蘇生させる。かつてあった村々の古謡とかは今はほとんどありません。なぜ保存しなかったのか。でもあれを保存しなかったから、新しい歌が生まれてきてるんです。僕はそう思います。(油井雅和/毎日新聞)
<プロフィル>
ちな・さだお 1945年生まれ、大阪府出身。父は沖縄民謡歌手の知名定繁(ていはん)。1957年、父と沖縄に戻り、登川誠仁(のぼりかわ・せいじん)さんの内弟子に。「惣慶漢那(スーキカンナー)」でデビュー。78年、「赤花」で日本本土デビュー。収録された「バイバイ沖縄」は島唄とレゲエをミックスさせた曲で沖縄音楽界に大きな影響を与えた。90年、女性4人のグループ「ネーネーズ」をプロデュース。那覇市の国際通りでネーネーズらが出演するライブハウス「島唄」(http://www1a.biglobe.ne.jp/dig/)のオーナーを務める。
「第20回記念!琉球フェスティバル2014」(大阪)は、5日午後2時半、大阪城音楽堂(雨天決行)。大工哲弘さん、大城美佐子さん、りんけんバンド、徳原清文さん、パーシャクラブ、大島保克さん、下地勇さん、ネーネーズ、上間綾乃さん、里朋樹・歩寿(ありす)さんが出演。知名定男さんは特別出演。詳しくは(http://page-one.jp.org/schedule/ryukyu2014.html)まで。
1974年・大阪、75年・東京の「琉球フェスティバル」の模様などを収録した「竹中労プロデュース 沖縄民謡名盤10作品」は日本コロムビアから発売中。詳しくは特設ホームページ(http://columbia.jp/okinawaminyo/)。
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