小野憲史のゲーム時評:香川の「ゲーム依存症対策条例」 さらに求められるゲーム・リテラシー教育

千葉県松戸市で行われたゲームプログラミングのワークショップ
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千葉県松戸市で行われたゲームプログラミングのワークショップ

 超硬派のゲーム雑誌「ゲーム批評」の元編集長で、ゲーム開発・産業を支援するNPO法人「国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)」元代表の小野憲史さんが、ゲーム業界の現在を語る「小野憲史のゲーム時評」。今回は、香川県議会が制定を進めている「ネット・ゲーム依存症対策条例案」について考えます。

ウナギノボリ

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 香川県議会が制定を進める「ネット・ゲーム依存症対策条例案」が賛否両論を巻き起こしている。子どものネット・ゲーム依存を防ぐため、県や学校、保護者、ゲーム会社などの責務を明確にするもので、2月の定例議会での制定をめざす。コンピューターゲームの使用時間を平日60分、休日90分までに制限するなどの項目が含まれており、子どものゲーム時間を条例で規定すべきかについて、ゲーム愛好家から識者までを巻き込んで、さまざまな論争が繰り広げられている。

 もっとも、仮に本条例が制定されれば、日本のゲーム・リテラシー教育も責任の一端は免れない。ゲームにのめり込みすぎる問題は、今に始まったことではない。これに対してアカデミズムから提唱された概念が、ゲーム・リテラシーだ。情報リテラシーやメディアリテラシーと同じく、ゲームの特性を理解することを通して、ゲームと適切に付き合う力が養えるという考え方。いわゆる「ゲーム脳」が社会現象になった2000年代後半に提唱され、さまざまな研究や議論が進展中だからだ。

 筆者もゲーム愛好家の一人として、子どものゲーム時間は条例ではなく、家庭のルールなどで決められるべきだ、という考え方に共感する。もっともゲーム業界が、ともすれば利益第一主義に傾きがちなことも理解している。そこで求められるのが教育だが、歩みが遅いのが現状だ。ゲーム・リテラシー教育の推進には、ゲームに夢中になる仕組み=ゲームデザインに関する研究を進め、体系化することが欠かせない。しかし、まだまだ日本では道半ばというのが実情だ。

 その一方で今日では、ゲームデザインのメソッドが、ゲーム規制派の理由づけに使われ始めている点も見逃せない。曰(いわ)く「ゲームには人を夢中にさせる仕組みがある」「この仕組みに対して、親や学校は抵抗できない」「だから規制が必要だ」という考え方だ。すでに述べてきたように、こうした考え方はゲーム・リテラシー教育と真っ向からぶつかる。どちらが正しいかは、簡単に答えを出すことはできない。実際にゲーム依存症に苦しむ人々もいるからだ。最終的には香川県民が決める問題だろう。

 ただし、ここで少し視野を広げて考えてみたい。2020年から全国の公立小学校でプログラミング教育が始まる。もっとも、その目的はプログラミング的思考の育成で、全国一律でパソコンを使ったプログラムの授業が始まるわけではない。実際、授業のアイデアには「料理の作り方を分解して順番に並べる」なども含まれる。その一方で、2021年には中学校、2022年には高校でプログラミング教育が必修化される。そこではコンピューターを用いて問題を解決する力を養うことも視野に入れられている。

 また、これに先立ち全国でさまざまなプログラミングに関する学習塾が開校ラッシュだ。千葉県松戸市のように、自治体が企業と連携して地域の子供たちにプログラミングのための環境を用意する例も出てきた。そこで、きっかけ作りに活用される例が多いのがゲーム作りだ。これは子どもたちがゲーム・リテラシーを育む上でも効果的だ。ゲームのおもしろさや、おもしろさを生み出すメソッドについて、実際にプログラミングを行いながら体験的に学べるからだ。

 振り返ると、これまでのゲーム・リテラシー教育はゲームを消費者の立場から捉えるものが多かった。しかし、今やゲームは「遊ぶ」から「作る」時代を迎えようとしている。クリエイターの立場から教育する環境が整いつつあるのだ。しかし、そのための教材やカリキュラムは、まだまだ不足している。この需要をアカデミズムが満たすことで、ゲーム・リテラシー教育が新しい時代を迎えられると思われる。その頃には子どものゲーム時間を条例で規制する愚策が笑い話になっていると信じたい。

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 おの・けんじ 1971年生まれ。山口県出身。「ゲーム批評」編集長を経て2000年からフリーのゲームジャーナリスト。2008年に結婚して妻と猫4匹を支える主夫に。2011~16年に国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)代表として活躍。退任後も事務局長として活動している。

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