王立宇宙軍 オネアミスの翼:伝説のアニメ 無名だった若者たちの奮闘 山賀博之監督が振り返る

「王立宇宙軍 オネアミスの翼」を手がけた山賀博之監督
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「王立宇宙軍 オネアミスの翼」を手がけた山賀博之監督

 1987年に劇場公開された長編アニメ「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の公開35周年を記念した4Kリマスター版ブルーレイディスク(BD)ボックスが11月4日に発売される。公開35周年を記念して、4Kリマスター化され、10月28日には劇場公開されることになった。山賀博之さんが監督を務め、貞本義行さんがキャラクターデザインを担当したほか、庵野秀明さん、樋口真嗣さんらが参加するなど豪華クリエーターが作り上げた“伝説”のアニメだ。公開当時、24歳の山賀監督をはじめ、知る人ぞ知る存在で、一般的には無名だった。彼らはその後、「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」「新世紀エヴァンゲリオン」などアニメ史に残る名作を生み出すことになる。山賀監督に、無名だった若者たちの奮闘によって生まれた伝説のアニメの制作の裏側を振り返ってもらった。

ウナギノボリ

 ◇映画監督を目指したきかっけ 庵野秀明、赤井孝美、岡田斗司夫との出会い

 山賀監督は「王立宇宙軍 オネアミスの翼」で商業作品の監督としてデビューした。制作がスタートした時は22歳で、同世代の若者がスタッフとして参加した。そもそも、山賀監督が映画監督を目指したのは高校生の時だった。映画監督になるために、映画「がんばれ!ベアーズ 特訓中」を10回見たという伝説がある。

 「高校2年生の時です。『カプリコン・1』という映画を見て、面白かったから、映画雑誌に何か載っていないかな?と立ち読みをしたんです。淀川長治さんが『映画監督になる方法があるとしたら、1本の映画を10回見なさい』と書いてあって、面白い!となった。僕は親が銀行員で、子供の頃から銀行員にはなりたくなかったけど、ドロップアウトする勇気もない。じゃあ、何か職業を持ちたい。映画監督になろう!と思ったんです。その時は何でもいいと思って、近所でやっていた『がんばれ!ベアーズ 特訓中』を10回見ました。1回目で、こういうものか……となって、2、3回と見ると、飽きてくる。4回目辺りで見るところがなくなるけど、このせりふはもっと後の方がいいんじゃないか? 音楽のタイミングが早くないか?とかいろいろなことを考え始めるんです。10回見終われば、僕だったらもっとうまくできるな……といっぱしの監督気分です。今思えば、ゴダールとかトリュフォーとか格好いい映画を選んでおけばよかったんだけど(笑い)。映画監督になると決めて、それからは映画をしらみつぶしに見始めるんです。映画をあれだけ見たのは高校2年生の2学期から高校3年生までの1年半。当時は新潟に住んでいたけど、封切り、名画座、テレビの映画をずっと見ていました」

 山賀監督は、映画監督を目指して、大阪芸術大学に入学した。そこで庵野秀明さんや赤井孝美さん、岡田斗司夫さんら後に一緒にアニメを作る仲間と出会う。

 「映画の大学に行くぞ!となったけど、当時の映画業界は冷え切っていて、これは仕事がないぞ……と気付いた。同じアパートに『アニメだ!』と言っているヤツがいて、庵野君が計算用紙にすごい作画を描いていた。本当にすごいんです。当時、ガンプラを求めて子供たちが殺到しているというニュースを見たんです。『ガンダム』のことはよく知らなかったけど、庵野君が好きなやつだな、子供たちにこんなに人気なら商機がある!となり、この男と一緒にいることで、職が得られるかもしれない……と考えるようになった。当時の大阪芸大では、アニメとか言っているヤツはバカにされていたので、大丈夫か?と思いつつ」

 山賀監督は、庵野さんらと共に同人集団「DAICON FILM」のメンバーとして自主制作のアニメや映画に携わる。1982年にはアニメ「超時空要塞マクロス」に参加する。

  『マクロス』は20歳の時です。庵野君たちは話がきた際は『あやしいから行かない』っていうから、『僕が行きます!』と手を挙げました。プロの現場に行けるのなら、こんなチャンスはない!という気持ちでした。向こうからしたら庵野君や赤井君にきてほしかったんだろうけど。庵野君たちも後で参加してくれたけれど、僕は完全な素人で、アニメって手で描いてるんだ……と思ったり、そんなレベルですよ。石黒(昇)監督が『君は何ができるの? 絵が描けないのか! 使えないな……。じゃあ、絵コンテを描くか!』とオープニングのコンテを描いたのが、最初のプロの仕事でした」

 ◇目の前に世界一の人間がいた いける!と自信があった

 「マクロス」の現場は経験したものの、山賀監督らは公開当時、一般的には無名だった。「王立宇宙軍 オネアミスの翼」は原作がないオリジナルアニメだ。無名の若者たちが、オリジナルの劇場版アニメをいきなり作るというのは無謀かもしれない。しかし、彼らはやってのけた。

 「いろいろなことを言う人がいっぱいいて、神話を作りがちですよね。アマチュアのサークルの人たちが、いきなり劇場用アニメを作ったとか。神話としてはその方がおいしいけど、それはどう考えたって無理な話です。大阪芸大に行った時点で、映画を作るプロであるという意識がありました」

 独創性、リアルに描かれた世界観、ハイクオリティーな映像で、世間を驚かせた。とんでもない才能が集まったからできたことなのだろう。

 「才能というのは結局評価があってのものなので、当時は果たして才能と言っていいのか?というギャップがあると思います。ただ、僕からしたら、これは才能だ!と思っていました。庵野君なんて、すごい作画をする。爆発、破片を描かせたら絶対世界一だ!と思っていました。目の前に世界一の人間がいて、金メダリストに並ぶものだと感じていたけど、世間の評価はもちろんそんなことはない。世界一の人間に作品を作ってもらいたかった。前田真宏と貞本義行にしても、実績などは関係なく、得がたいものであった。そのジャンルでは世界一であることは、同じような価値観を持つ人だったら分かってくれると思っていた。だから、いける!と自信があった」

 当時は無名だったかもしれないが、とんでもない才能であることは歴史が証明した。

 「彼らが証明したことで、僕が証明したことではありません。彼らは自分自身で道を切り開いていった。ただ、あの時点では不遇の天才にしか見えなかった。駆け出しだったし、彼らの才能と社会的地位にギャップがあったんです」

 ◇無名の若者に作らせた裏側 抵抗はなかった

 「王立宇宙軍 オネアミスの翼」は、岡田斗司夫さん、山賀監督らがバンダイに企画を売り込んだことをきっかけに誕生した。バンダイにとって初の劇場版アニメだった。無名の若者たちに大役を任せることに不安はなかったのだろうか? 当時、バンダイでプロデューサーを務めた渡辺繁さんにも話を聞いた。

 「会社は怖かったでしょうね(笑い)。私は映像の仕事の前は、おもちゃの開発をやっていたんです。その際に、マニアックなアマチュアが自主制作したガレージキットに注目して、アマチュアモデラーに原型を発注し、一般発売する商品を作ったことがありました。原型ができた時、山賀さん、岡田さん、庵野さんに見てもらったことがありました。その時が初対面でした。原型を見て、庵野さんは『顔が似ていません』と言うんです。小田雅弘というガンプラを支えた人に、頭の原型を作り直してもらい、その商品がうまくいったんです。その後、フロンティア事業部(映像部門)に入った時、村上克司さん(バンダイのデザイナー)に『アマチュアで面白い作品を作る人間がいるよな。彼らと作ってみては?』と言われたこともありました。村上さんはDAICONのことを知っていたんじゃないかな? そんなこともあって、あんまり抵抗はなかったです」

 参加したのは無名の若者だけではない。坂本龍一さんが音楽を手がけたことも話題になった。森本レオさんが主人公・シロツグの声優を務めたことも話題になった。

 「フロンティア事業部は、ビデオショップ向けの映像事業をやっていたんだけど、そこは真っ赤な赤字でした。ラインアップは音楽ビデオだったんで、アニメや特撮ではなかった。音楽ビデオでは大失敗すると思って、当時はアニメや特撮を真面目にやるメーカーもなかったので、そこを真面目にやろうとした。EMOTIONというレーベルを作って、ニッチなところを攻めました。実は音楽ビデオのラインアップに細野晴臣さんがあったんです。そのつながりで、『王立宇宙軍』は坂本龍一さんに音楽をお願いしました」

 ◇上の世代との価値観の違い 僕らはクズじゃない

 「王立宇宙軍 オネアミスの翼」は、ただ漠然と毎日を過ごす王立宇宙軍の兵士シロツグが、ある少女との出会いをきっかけに初の宇宙パイロットに志願し、いくつもの壁を乗り越え、宇宙を目指す……というストーリー。アニメだが“実写映画的”にも見える。山賀監督は「僕がアニメを知らないということが大きいんですよ」と語る。

 「どうやったらアニメ的に作れるのかが分からなかった。今でもそうです。謙遜ではなくて、僕の特徴なんですよね。アニメを作る意識はあるんです。でも、アニメを知らないからアニメっぽくならないんです。どうやったらアニメになるか?とかなり気を遣っていました。アニメーションの技法という意味であれば、絵を重ねて撮ればできるけど、アニメはジャンルじゃないですか。そのジャンルが、僕にとってハードルが高く、難しかった」

 本当は実写映画が撮りたかったのでは?とも思ってしまうが、山賀監督は「そうでもないんです」と否定する。

 「アニメと出会ってからは、アニメを作りたいと思っていた。だからこそアニメであろうとしたんです。アニメをやりたいのに、アニメのことがまだ分からない。巨匠が格好よく『私は映画が分からない』と言うのとは違いますよ。僕は本当にアニメが分からないんです」

 山賀監督は当時、感じていた“世代の断絶”を描こうとしていたという。

 「ちょっと上の世代を狙っていました。10歳くらい上の世代ですね。僕らは新人類と呼ばれていて、上の世代から『あいつらは何を考えているのか分からない』と言われていた。僕らは、彼らの持っている倫理感、常識を受け入れられない。今の言葉だと“昭和の感じ”です。当時も昭和だったんですけど(笑い)。それが、どうも受け入れられなかった。僕からしてみれば、倫理感がないわけじゃない。自分たちにとって正しいものがある。大人たちが言ってることとはちょっと違うんだよな……という気分があった。自由であることの価値観の差が大きかったのかもしれない。上の世代の人たちは、自由であることに、後ろめたさを感じているように見えた。僕らはクズじゃなくて、生きているということを発信したかった。そういうプロテスト的な主張がありました。そうなると、自分の価値観を押し付けてくる世代を描くかもしれないけど、それはやりたくなかった。ちょっとひねっています」

 シロツグたち王立宇宙軍のメンバーは当時の山賀監督らのようにも見える。

 「一つ言えるのは、あそこに出てくる若い連中のモデルはアニメーターです。当時のアニメーターは、親にも言えない職業でした。実写映画が一番で、その次がテレビで、その下がアニメだったんです。僕たちの下を見ても地面しかない。若い頃だから、ナンパをしたりするけど、誰も自分の仕事のことを言わなかった。『デザイン関係です』とか言っていた。僕はあんまり気にしないで、『アニメを作っていますよ』と言っていたけど」

 ◇4Kリマスター版は全部聴こえる 全部見える

 「王立宇宙軍 オネアミスの翼」は、アニメファンに衝撃を与え、その後も語り継がれる名作になった。しかし、山賀監督は「結局、アニメだから上の世代は見てくれなかったですしね。監督をやったってことで、インタビューを受けても、大体バカにされていました。そんなもんですよ。覚悟していました。変わったのは、仕事を得たことです。それは大きかった。ガンダム(機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争)の脚本もやらせてもらえましたし」とも話す。

 公開35周年を記念して4Kリマスター版が制作されたのは、伝説になったからだ。山賀監督が4Kリマスター版を監修した。

 「4Kリマスターは本当にすごい。絵がすごいのは当然だけど、音がすごいんです。1987年のオリジナルプリントがオリジナルなんだから、それが元なんじゃないかと思いがちだけど、プリントはぼやけています。音にしても当時の映画館の設備では、入れたはずの音が聴こえないところもありました。今回は全部聴こえるし、全部見える。当時の自分たちの仕事をそのままリアルに見られるのが、4Kリマスターのすごさです。過去のことではなく、ついこの間のことのようなリアリティーで迫ってきました。ついつい忘れたことすら思い出すくらいのリアリティーでした。そういう意味では懐かしさは全くなかったですね。たった今の気分で見ていました」

 無名だった若者たちの血と汗の結晶は、色あせることはない。これからも伝説として語り継がれるはずだ。

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