小野憲史のゲーム時評:「ゲーム批評」の思い出(3) 過渡期にあったゲーム業界と二十代の自分

中古ゲーム訴訟で勝訴した流通側の会見=筆者提供
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中古ゲーム訴訟で勝訴した流通側の会見=筆者提供

 超硬派のゲーム雑誌「ゲーム批評」の元編集長で、ゲーム開発・産業を支援するNPO法人「国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)」元代表の小野憲史さんが、ゲーム業界を語る「小野憲史のゲーム時評」。今回も、小野さんの「ゲーム批評」時代の思い出を語ってもらいます。

ウナギノボリ

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 すでに何度か述べたように、筆者が編集に携わっていた雑誌「ゲーム批評」には広告が入っていなかった。そのため広告主におもねることなく、思ったことを自由に書けたが、何を書くかは誰も教えてくれなかった。そして書いたことの責任が、直接自分に跳ね返ってきた。編集部全員が雑誌編集の素人だったこともあり、毎号さまざまなトラブルがおきた。これにより発売日が遅れることもしばしばだった。読者からも発売日に関する問い合わせが続いた。

 中でも大変だったのが取材先とのやりとりだった。創刊当初からゲームの作品批評と業界レポートの2本柱が決まっていた。このうち後者が丸ごと自分にふってきた。創刊号ではカプコンとデータイーストの格闘ゲームを巡る著作権裁判がテーマだった。創刊2号では美少女ゲームの倫理審査、3号ではゲーム専門学校の矛盾……。大学を出たての新人には荷が重すぎるテーマが続いた。それだけ編集部に人材がいなかったのだ。

 企画会議で特集テーマが決まると、それにもとづいてページ構成(台割)を決め、取材先を決め、取材の申込みを行う。もっとも、きわどい内容の取材が多く(好き好んで自社の不利益になるような取材を受ける人は少ない)、電話をするだけで胃が痛い日々が続いた。原稿料も安かったので、ベテランのライターに発注する余裕がなく、一人で取材先を回ることも多かった。改めて読み直すと質の低い記事も多く、赤面させられる。

 一方でゲーム業界をもっと良くしたいという思いから、取材に協力してくれた業界人も少なくなかった。特にゲームショップの仕入れ担当者や、中小ゲームメーカーの広報・宣伝担当者に、気骨のある人が多かった。実際、自分が編集者をしていた1990年代後半は、スーパーファミコンからプレイステーションに市場が移行していく中で、さまざまな矛盾が噴出した時期でもあった。業界内に怨嗟(えんさ)の声がうずまいていて、ネタに困らないという側面はあった。

 象徴的なものにゲームの中古問題がある。中古市場でゲームが回転すると、新作の売り上げを阻害するとして、ゲームメーカーと流通業者で対立が深まった。背景にはゲームの大作化に伴う利益率の低下と市場の縮小、そしてファミコン時代から続く流通在庫の問題があった。やがて訴訟合戦となり、最高裁までもつれ込んだ結果、流通側が勝訴した。「頒布権」という法律用語をゲーム雑誌で知った読者も多かったはずだ。自分も付け焼き刃の勉強を繰り返した。

 一方でゲーム産業の成長と共に、こうした業界取材を新聞社や経済誌などの一般メディアが担うようになっていった。その過程で自分が取材を受けたり、逆に自分から取材したりする機会も増えた。退社後の話になるが、マイクロソフトがXboxを発表した際、姉妹誌『パソコン批評』の編集者と共に、来日していた米国人のITジャーナリストにインタビューしたのは一例だ。ゲームが社会の中で急速に広がりを見せ始めていた。

 「プレイステーション2はゲーム機&DVD、この『&』がおもしろいところ」。当時『巨人のドシン』を制作中だった、ゲームクリエイター飯田和敏氏のコメントだ。こうした取材に刺激を受けて、徐々にゲームが社会の潤滑油になっていくという考えが、自分の中で固まっていった。後のゲーミフィケーションにつながる発想だ。その頃から地方紙のコラム連載を皮切りに、徐々に他媒体でも記事を書くようになり、フリーランスへの道につながっていった。

 振り返ると二十代でゲーム業界の取材を続けたことが、現在の仕事につながった。ただし、仮に三十年前に戻れるとしても、二度と繰り返したくないのも事実だ。今では異なると思うが、当時はそれくらいブラックな職場だった。一方でブラックならではの楽しみもあった。徹夜でオンラインゲームを遊んだり、缶ビールで密かに飲み会をしたりもした。何より、あの編集部でなければフリーランスにはなれなかっただろう。そう考えると複雑な思いにかられるのだ。

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 おの・けんじ 1971年生まれ。山口県出身。「ゲーム批評」編集長を経て2000年からフリーランスで活躍。2011からNPO法人国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)の中核メンバー、2020年から東京国際工科専門職大学講師として人材育成に尽力している。

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