解説:小野憲史のゲーム時評 「ゲーム批評」の思い出(5) 「右手で握手しながら左手で殴り合う」

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 超硬派のゲーム雑誌「ゲーム批評」の元編集長で、ゲーム開発・産業を支援するNPO法人「国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)」元代表の小野憲史さんが、ゲーム業界を語る「小野憲史のゲーム時評」。今回も、小野さんの「ゲーム批評」時代の思い出を語ってもらいます。

ウナギノボリ

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 雑誌「ゲーム批評」が軌道にのるにつれて、ゲームクリエイターに対する取材が増えた。他誌のインタビュー記事を参考にゲームを遊び、批評記事を掲載していたので、直接取材をするようになったのは当然の流れだった。もっともメーカー側からすれば、ゲームの発売後にインタビュー記事が掲載されても、売り上げにはあまり結びつかず、いい顔をされないこともあった。それでも何人かは、おもしろがって取材を受けてくれた。

 そうした縁からゲームクリエイターの連載コラムが増えていった。「ポケットモンスター」の田尻智さん、「メタルギアソリッド」の小島秀夫さん、「ストリートファイターII」の岡本吉起さんなど、今から思えばそうそうたるメンバーが安い原稿料で筆を執ってくれた。多くはゲームがヒットし、取材に行き、それが縁で連載が始まり、次回作が佳境に入ると、多忙を理由に終了するのが常だった。しかし、時には発売後の評価を巡ってトラブルが起きることもあった。

 中でも象徴的だったのが飯野賢治さんの一件だ。「Dの食卓」のマスターアップ直後に取材し、その歯に衣着せない物言いと行動力に圧倒された。連載「エビスからの手紙」は大人気となり、対談集「飯野賢治の本」にもつながった。一連のソニー批判、そして新作「エネミー・ゼロ」のセガサターン移籍騒動も、最前線で取材させてもらった。自分と同い年であることを知ったとき、世の中にはこれほどすごい人がいるのかと驚愕したものだった。

 それだけに、満を持して発売された「エネミー・ゼロ」の扱いには迷った。そのクオリティーに業界からも、ユーザーからも、賛否両論があったからだ。これにともない、本誌がどのような批評文を掲載するか、世間から試されている気がした。評価すればおもねったと勘ぐられ、批判すれば飯野さんとの縁はこれきりになり、玉虫色にすれば読者の信頼を失う恐れがあった。担当編集として自分もプレイしたが、そこまでおもしろいとは思えなかった。

 その後、両論併記を狙って2本の批評記事を載せることになったが、草稿を読んで編集長が頭を抱えた。どちらも酷評に近かったからだ(1本は編集部の総意として自分が書いた)。最終的に編集長が腹をくくり、そのまま掲載した。出版後、飯野さんから編集部に電話があり、編集長が対応した。どういった話があったのか、編集会議で共有されたはずだが、今となってはよく覚えていない。その後、飯野さんとお会いする機会がないまま、42歳で他界された。

 この一件は編集部に大きな影響を与えた。人気ゲームクリエイターの連載原稿は掲載したい。一方で彼らが手がけたゲームを批評しないわけにはいかない。「連載陣のゲームは批評しない」「複数の批評者に発注する」など、試行錯誤が続いたが、どれも中途半端に終わった。最終的に「嫌われたら仕方がない」と開き直るしかなかった。ただし、ふだんから誠実に対応することが重要だった。いつしか「右手で握手しながら、左手で殴り合う」が合い言葉になった。

 ゲーム雑誌に限らず、芸能界、映画、スポーツなど、コンテンツを扱う専門誌は、常にコンテンツホルダーとの距離感を試される。まして「ゲーム批評」には広告が入っていなかったため、一度ゲームメーカーとの関係が壊れると、修復が困難だった。それでも、そうした編集方針を面白がってくれた人々がいたおかげで、出版が続けられた。自分はそうした業界関係者に、一方的に同志的な思いを抱いていた。この場を借りて、改めて御礼を申し上げたい。

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 おの・けんじ 1971年生まれ。山口県出身。「ゲーム批評」編集長を経て2000年からフリーランスで活躍。2011からNPO法人国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)の中核メンバー、2020年から東京国際工科専門職大学講師として人材育成に尽力している。

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