1972 渚の螢火:高橋一生&原作者・坂上泉が思い語る オフィシャルインタビュー公開

「連続ドラマW 1972 渚の螢火」の場面写真=WOWOW提供
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「連続ドラマW 1972 渚の螢火」の場面写真=WOWOW提供

 俳優の高橋一生さんが主演を務める連続ドラマ「連続ドラマW 1972 渚の螢火」(WOWOW)で、高橋さんと原作者の坂上泉さんのオフィシャルインタビューが公開された。

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 原作は坂上さんのクライムサスペンス「渚の螢火」(双葉文庫)。1972年、本土復帰に際し、円ドル交換が進む沖縄で、ドル札を回収していた現金輸送車が襲われ100万ドルが強奪される。この件が日本政府や米国政府に知られると、重大な外交問題に発展しかねないと懸念した琉球警察は、秘密裏に解決するため、真栄田太一(高橋さん)を班長とする特別捜査班を編成。復帰まで18日しかない中、真栄田たちは事件解決に奔走。強奪事件は地元ギャングの犯行と目されたが、その背後には米国政府の思惑が……というストーリー。

 ◇高橋一生さん

 --今作の出演オファーについて

 僕はこれまで、お芝居は娯楽の比重が大きいと思っていたので、実際にあった出来事が関わっている作品に出演することを、どこか敬遠していたんです。今回、真栄田という役を演じるに当たって、まず僕の顔が沖縄の方っぽくない、というのもありますし(笑)、この場所の歴史を自分が語ると考えると、お受けするのは難しいかもしれないと思いました。

 フィクションでは、見ている人たちの心の豊かさにつながる作品が作れると信じているので、できれば虚構の世界の中に生きていたい。…そう思っていたのですが、今回の作品は、監督の平山秀幸さんが以前から何度かお仕事させていただいている方であることと、高江洲義貴プロデューサーが「一生さんの顔でも大丈夫です!」と言ってくださったので、大丈夫かと思った部分もありまして(笑)。また、撮影で沖縄に入ってからいろんな方々にお会いしてお話しさせていただく中でも、全然大丈夫だなと感じました。

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 沖縄の歴史についても知っているつもりでいましたが、新鮮なこともたくさんありました。ロケ地を貸していただいた地元の方にもお話を伺いながら、次第に自分がやることの意味を感じられるようにはなったかなと思います。

 「娯楽としてやりたい」と思っているベースは今も変わらないのですが、できる限り重心の低い作品を選びたいとなると、今作のような作品になるのかもしれない、と感じています。

 --今回の撮影を経て沖縄の印象

 沖縄には何度か遊びに行ったことがあります。地元の方と一緒にいろんな所へ行き、いろんなものを見ました。ひめゆりの塔や、普段は入れないような防空壕にも入らせてもらったのですが、今回真栄田という役の視点が半分入っている状態で現地に入ると、これまでとは感覚が少し違いました。

 1972年を背景とした今回の沖縄の話は、まだ生々しさが残っていますし、この年の5月15日、本土復帰の日に全部が変わったというこの感じは、他のどの国を探してもあまりないような気がします。行く先々で現地の方々に話しかけたのですが、本当にたくさんの話をしてくださって。それを聞いていると「自分がやる意味はあったかもな」と思いました。この経験は自分の中で良い経験になっています。

 「コザ暴動」という言葉は知っていましたが、実際に現場にいた方の話を聞くとイメージがまったく違っていました。居酒屋で「よし、やってしまおう」と始まって、車をひっくり返しに行ったんだそうです。「それでいつ終わったんですか?」と聞くと、「何となくなんですよね~」とおっしゃっていました。この感覚は、ものすごく生々しいと思うんです。やはり人間の限定的・局所的な衝動に対する鎮静の仕方や収まり方は、誰かが押さえ込んでということではないんだなと思いました。自分たちの気が済むところまでいったら「何となく」ゆっくり凪いでいく感じが、波のようで自然だなと思いました。「そんなの嘘だよ」と思う人もいるかもしれません。それは芝居と通底するようなところがあって、誰かから見たら僕の芝居はすごく嘘くさいかもしれないですが、誰かからしたらすごくリアルに感じられるかもしれない。そういった意味で、戦争が終わった後の生々しい状況の沖縄を肌で感じることができたことは、僕の人生経験においても非常に良かったと思います。

 --高橋さん演じる真栄田という役について

 僕が1972年当時に警察署員だったら、という考え方しかできないですが、できる限り原作の雰囲気を残しつつ、脚本の中にある“真栄田太一像”を意識すると、彼は自身のアイデンティティーにおいて非常に悩んでいる人間だと感じました。そして、その点が僕としては一番役に入りやすかったポイントでした。彼の何ともいえない微妙な揺らぎは、規模やレベルは違いますが、僕が映像と舞台の作品を並行しながら多くやり始めたときと似たような感覚を覚えました。それぞれの側から「映像に出るから売れたいのね」とか「映像に出ないと始まらないよ」などというようなことを言われることがあり、そういうどっちつかずの中でやっていたような感じを思い出しながら、真栄田という人間を作っていったような気がします。今はそんなことに悩んでいた自分がかわいらしいなと思うところはあるのですが、当時はすごく必死になっていました。今も真栄田が生きていて、もうおじいちゃんになっているとしたら「あんなこともあったなぁ」と言えてしまうぐらいのことなのかもしれない。ですがやはり自分がアイデンティティーを模索している時期に受けるいろんなことが、どこか自分の根幹を作っているのだと思います。

 沖縄と東京で撮影する中で、自分の中で順を追って組み合わせていくと、“真栄田太一像”が確固として浮かび上がってきます。なので、真栄田太一をひとりの人間として人間観察するように「こんなとき、真栄田はこんなふうに言うのね」という感覚で、面白く演じられたとは思います。

 --ドラマを見る視聴者の皆さんへのメッセージ

 今のドラマの在り方に対して、WOWOWは、ドラマだから映画だからという分け方をせずに、物語やキャラクターをきちんと重視しながら撮れる環境を作ってくださいます。そのような制作の体制を取れる現場は貴重なのでありがたいですね。今は、制作の裏側も含めて突っ込んだり考察したりすることすらもエンタメ化している感じがあるのですが、作品そのものにしっかりと没入できるという点で言えば、やはりWOWOWはとても強いと感じます。

 「1972 渚の螢火」は、当時こんなことがあったのか、あったのかもしれない、という時代のにおいや背景、その感覚を体感してもらえるドラマなのではないかと思います。真栄田のキャラクターだけでなく、本土復帰前後の沖縄の雰囲気を感じながら、人間のさまざまな感情の動きを目の当たりにして豊かな気持ちになってもらえたらうれしいです。ぜひご覧ください。(取材・文=真栄城潤一)

 ◇原作:坂上泉さん

 --映像化が決定した時とキャスティングを聞いたときのお気持ち

 とても嬉しかったです。発表した小説は3作ですが、物語として面白いと思ってもらえたということと、映像化できる物語として評価いただけたということが素直に嬉しいですね。

 キャスティングに関しては、私にとってファンの方もいて驚いています。良いキャスティングをしていただいたと思います。「こうくるか!」っていう驚きもあるし、「なるほどな」という感覚もありました。

 --原作の舞台を本土復帰の際の沖縄、そして琉球警察を舞台にした理由

 20数年間アメリカの施政権下にあって、なおかつ沖縄県警察が戦争中に消滅した後にゼロから作っているという意味で、かなり異質の歴史をたどっていると思います。そういう元々の成り立ちが違うところと、上にアメリカ軍がいて、琉球警察がいて、どっちを見るんだというこの組織の複雑さ、そこにすごいドラマがあるなと思ったので、ぜひ書きたいと思いました。

 元々戦後史に興味があったのですが、その中でも沖縄の日本復帰はやはり避けて通れないと思います。一方で舞台として、右側通行の730やドルの流通など、他の日本本土の地域がたどったのは違う歴史を経て、文化に触れている。それが今の沖縄の社会や文化の成り立ちに良くも悪くも影響を与えているところがいっぱいあると思います。そういうものが特に濃密に残っていたこの最後の瞬間、1972年の4月から5月にかけての時期が、すごく複雑性に富んでいて、物語の舞台としてドラマがあるなと思っています。

 --日本と沖縄の関係性の複雑さの中で揺らぐ主人公・真栄田太一のパーソナリティはどのように掘り下げていったのか?

 沖縄に限らず、大人になり、東京や大阪などの都市圏に出て地元との縁が薄れるという方はいらっしゃるかと思います。そんな中で、自分のアイデンティティが、地元なのか東京なのか、あるいはまた別のところなのか、揺れ動く。自分自身にもそういう思いがあったからこそ、沖縄で当てはめるとどういうことになるのか書きたかったのです。沖縄ではなくて、むしろもっと普遍的にありうる像として描いております。

 --“八重山出身”ということから、真栄田が沖縄本島出身の人間から揶揄されることについて

 THE BLUE HEARTSの「TRAIN-TRAIN」の歌詞で、「弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく」という歌詞がありますが、支配/被支配って0と100ではなくて、例えば沖縄の中でも差別/被差別がある。例えば警察内部でも久米島閥があっただとか、八重山への差別があるだとか、当時でいうところの混血児の問題など、社会の中での支配/被支配を、戦後史を描く上で沖縄を舞台にするなら、ちゃんと描きたかったのです。

 --真栄田を敵視する与那覇清徳や日系二世のジャック・シンスケ・イケザワなど、周囲の登場人物の造形や境遇について

 今作を描く時、実は念頭にあったのが「チーム戦」です。主人公の周りを固める5、6人にどんなキャラクターが必要なのかという組み立てをしました。主人公が複雑な人間だったら、一方で沖縄にどっぷり浸かった典型的な沖縄人がいるべきだし、あるいは日系アメリカ人というある意味イレギュラーで支配側なのか被支配側なのか分からない人間も入れる、といった形で考えていきました。それぞれの人物にどんなバックストーリーがあったのかということも踏まえて、物語を作っていきました。

 --沖縄を題材にする上で、こだわった部分や大事にしたこと

 小説は活字の媒体なので、あえて活字情報では得られづらい情報をなるべく落とし込もうと思いました。特に色を意識しました。沖縄は本州に比べるとすごくカラフルでビビッドな印象があって、そこを今作ではちゃんと出したいなと考えました。

 あとは当時の沖縄社会であまり記録されていない、“当たり前の風景”も意識しました。当たり前の情報は記録に残りづらい、イレギュラーだからニュースになる。当時テレビでどんな番組が流れていたのか、車道にどんな車が走っていたのか、そういうことをまぶしています。

 --執筆後の沖縄への意識や見方の変化

 調べれば調べるほど、分からないことがいっぱいありました。沖縄については観光地や歴史上の舞台としてしか知らなかったのですが、そこには当然日々の生活があるし、営みがある。だからこそドラマが生まれるのだな、ということは書きながら、調べながら感じていました。分からないことが増えていくと同時に、そういう土地なのだという実感が湧いてきましたし、だからこそ単純な被害者や単純な加害者はいないようにしたいという気持ちが書いているうちに増したと思います。そういったことも踏まえて、小説では次の一歩に進んでもらいたいという意味も込めた展開で書いています。そしてそこから今現在に繋がっている、というメッセージを込めています。(取材・文=真栄城潤一)

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