小野憲史のゲーム時評:「ゲーム批評」の思い出(2) 思い出したくない失敗の歴史

宮本茂さんと名越稔洋さんの対談記事(ゲーム批評1999年11月号)
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宮本茂さんと名越稔洋さんの対談記事(ゲーム批評1999年11月号)

 超硬派のゲーム雑誌「ゲーム批評」の元編集長で、ゲーム開発・産業を支援するNPO法人「国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)」元代表の小野憲史さんが、ゲーム業界を語る「小野憲史のゲーム時評」。今回は、小野さんの「ゲーム批評」時代の失敗談を語ってもらいます。

ウナギノボリ

 筆者がゲーム雑誌の編集者をしていた1990年代はアナログからデジタルへの移行期だった。原稿用紙がワープロになり、ファクスが電子メールになり、印刷所とのやりとりが版下入稿からフルDTPになっていった。それでも取材時では銀塩カメラとテープレコーダーが必需品だった。そして、これがくせ者だった。

 せっかく撮影したのに、カメラにフィルムが入っていなかった。あやまってカメラの裏蓋を開けてしまい、撮影済みのフィルムを感光させてしまった。ストロボの光量調節を間違えて、白飛びの写真を量産してしまった……。重要な取材ほど緊張してしまい、失敗することが多かった。モノクロで雑誌の紙質が悪く、金銭的な余裕もなかったため、編集者が写真を撮影していたのだ。

 録音ではテープレコーダーを使っていたが、カセットのA面とB面を入れ替え忘れて、インタビューの後半が、まるまる録音されていなかったこともあった。MDレコーダーを使うようになって、こうした手間はなくなったが、かわりに途中で乾電池が切れてしまい、録音したはずが、再生できないことがあった。録音機材を複数用意することと、メモが欠かせなかった。

 もう時効だと思うので、恥を忍んで書くが、「飯野賢治の本」(マイクロデザイン社)でゲームクリエーターの飯野さんと、任天堂の宮本茂さん、横井軍平さんの写真がピンボケ気味なのは、自分が撮影したからだ。近眼の進行に気づかず、手動でピント合わせをしていた。写真を見て反省し、人生で初めて眼鏡を購入した。編集長も反省したのか、以後は(本書に限って)プロのカメラマンに発注された。

 任天堂を退職直後の横井さんにインタビューをした時は、カメラそのものを忘れてしまった。京都に向かう新幹線の車内で気づき、カメラ店に駆け込んで、安物のコンパクトカメラを買った。ちょうど祇園祭と日程が重なり、タクシーが進まず、先方に30分以上遅刻してしまった。それにもかかわらず、たいへん親切に取材対応をしていただき、深く感謝した。

 極めつけはセガ・エンタープライゼス(当時)の名越稔洋さんと、宮本さんの対談記事だ。両社のトップクリエーターによる対談は過去に例がなかったが、奇跡的にOKが出た。スケジュールを調整したところ、掲載に間に合いそうになかったが、印刷所に頼み込み、12ページだけ入稿を待ってもらった。部数が減少する中で、目玉記事にしたかったのだ。

 ただし、対談は失敗続きだった。まず徹夜作業がたたって新幹線に乗り遅れ、京都駅で名越さんを待たせてしまった。対談自体はスムーズに進んだが、途中でテープレコーダーが止まっていることに気づき、青ざめた。そこからは必死になってメモをとった。事情を話すわけにもいかず、帰りの新幹線で名越さんに対談の感想を聞きつつ、大慌てで構想をまとめた。

 翌日は休日出勤で他に社員がいない中、メモと記憶を頼りにワープロをたたいた。なんとかして対談記事を仕上げなければ、12ページも穴が開いてしまうのだ。数時間後、どうにか草稿がまとまり、両社に確認のファックスを送った。原稿の修正も最小限に留まった。おかげさまで対談記事は好評を博したが、二度と繰り返したくない思い出だ。

 フリーランスになった後も、海外取材でカメラを水没させるなど、機材の失敗は数知れない。それにもかかわらず、温かく見守っていただいた業界の皆様に深く感謝したい。人は失敗から学ぶというが、若手や新人には、こうした失敗は避けてほしいのが本音だ。ただし、失敗のないところに成長はない。大学で人材教育に関わるようになって、改めて難しさを感じている。

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 おの・けんじ 1971年生まれ。山口県出身。「ゲーム批評」編集長を経て2000年からフリーランスで活躍。2011からNPO法人国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)の中核メンバー、2020年から東京国際工科専門職大学講師として人材育成に尽力している。

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