小野憲史のゲーム時評:「飯野賢治」が求められる時代

 米エレクトロニック・アーツの創始者、トリップ・ホーキンスさんは1980年代後半、「アーティスト・シンポジウム」を開催し、ゲームデベロッパーはロックバンドたれと主張した。アップル・コンピュータのスティーブ・ジョブズさんは海賊を標榜(ひょうぼう)したが、こちらはロックというわけだ。当時のゲームは4~5人で開発される例が多く、この比喩がしっくりきた。後にホーキンスさんはゲーム機の3DOを提唱し、ゲーム史に名を残すことになる。

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 この「ゲームデベロッパー=バンド論」に影響を受けたクリエーターの一人が、故・飯野賢治さんだ。1994年に3DOで出世作「Dの食卓」を発表。エッジの効いた作風と共に、歯に衣着せぬ言動で「ゲーム業界の風雲児」として注目を集めた。2000年代に入るとゲーム業界から離れたが、ゲームデザイナーとしての視点を生かして、さまざまな分野で活躍。2013年2月20日に42歳の若さで急逝した。

 飯野さんの功績の一つは、自身を「飯野賢治」としてプロデュースし、ブランド化したことだ。当時代表を務めていたゲーム開発会社のワープを「バンド」、自身をバンドリーダーと呼称してメディアに露出。広告制作にも精通し、広告原稿やゲームショウのブース設営などでは、細部にまで目を通した。広く「広告」を意識した唯一無二のゲームクリエーターで、今に至るまで孤高の存在となっている。

 残念ながらゲーム業界では2000年代に入って大作化が進み、「バンド」規模の作品ではヒットが難しくなった。飯野さんもゲーム業界から離れ、「飯野賢治」にとらわれず幅広い活動を続けていた。伝統旅館のリニューアルを、ゲームデザイナーの視点でコンサルティングし、おもてなしの空間を演出したというのもその一つだ。急逝する直前は教育産業への進出も視野に入れて活動していたという。

 一方、スマホアプリのブームなどで、再び「バンド」が活躍できる環境が整ってきた。インターネットで不特定多数のユーザーから投資を募るクラウドファンディングも、その流れを後押しした。ただし、誰もが投資を募れるぶん、平凡な企画や見せ方では埋没する。求められるのはゲーム作りに加えて、高いプロデュースのスキルであり、広い意味での広告力だ。再び「飯野賢治」が求められる時代がやってきたのだ。

 飯野さんの作品を一堂に集めた展覧会「飯野賢治とWarp 展 - ONE.D.K~飯野賢治とWarp作品をプレイする14日間。~」も、こうしたゲーム業界の流れを感じさせた。4月28日から5月17日まで渋谷で開催され、飯野さんが手がけたゲームソフトや開発資料、愛用の楽器類、愛蔵書などが展示された。一般ユーザーだけでなく、過去に親交のあったゲームクリエーターの姿も見られた。

 最大の特徴は、展覧会に新作アプリ「KAKEXUN(カケズン)」の宣伝という側面をもたせたことだ。飯野さんが生前に書き残した企画書をベースに、旧ワープの同僚が集結。開発資金はクラウドファンディングで調達する。旗振り役となったのは、「アクアノートの休日」などで知られ、飯野さんとも親交の深かったゲーム作家の飯田和敏さんだ。飯野さんと同世代で、同じ世相を感じてゲームを作り、今も第一線で活躍している。

 会場の模様はインターネットで配信され、時には来場者と一緒になって即興イベントやトークライブなどが行われた。最終日は飯野さんが残したインタビューテープの音声をもとにDJライブが行われ、会場全体でフィナーレを迎えた。飯田さんも「ゲーム菩薩」を名乗り、ネットに露出した。こうしたパフォーマンスも、一つには話題作りのためだ。成功の保証はなかったが、ギリギリになって資金調達に成功した。

 マンガやアニメと違い、日本のゲーム開発者はほとんどが会社員だ。生活は安定するが、思うようにゲーム作りができないこともある。一方で飯野さんが追い求めたものは、何よりも「自由」だった。そのための苦労は、すべて背負い込む覚悟で挑んでいたのだ。今、ネットの力を得て、ゲーム開発の自由度はかつてないほど広がっている。そこに挑戦する覚悟があるか否か、一人一人の生き方が問われている。

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