解説:田沼意知は一橋治済に消されたのか? 「べらぼう」で描かれた刃傷事件の真相

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第28回の一場面(C)NHK
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大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第28回の一場面(C)NHK

 俳優の横浜流星さん主演のNHK大河ドラマべらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(総合、日曜午後8時ほか)の第27回(7月13日放送)と第28回(27日放送)では、矢本悠馬さん演じる佐野政言が、“丈右衛門だった男”(矢野聖人さん)の策略にはまって田沼意知(宮沢氷魚さん)への恨みを募らせ、殿中で意知に斬りつけるまでの過程が描かれた。その背後で一橋治済(生田斗真さん)が暗躍していることも視聴者に印象づけた。

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 ◇刀にトリカブトの毒を塗っていた 佐野政言の強い殺意

 この事件を詳述した「営中刃傷記」によると、政言は犯行の動機をつづった口上書を遺していた。その内容は、(1)佐野家の系図を意知に貸したが返却してもらえない。(2)田沼家の所領近くに佐野家の土地があり、そこにあった佐野大明神という社が、意知の命で田沼大明神に改められた。(3)意知は要職を世話すると言って、620両の賄賂を受け取りながら、約束を反故にした。(4)将軍・家治の鷹狩りにお供して鳥を一羽射止めたのに、意知は別の者が射止めたとうそをつき、将軍の前で恥をかかされた……といった内容だ。

 この犯行動機は別の文書でも言及されている。事件直後に尾張徳川家の江戸藩邸が幕府から情報収集し、国元の家老に送った文書だ。政言の犯行は遺恨によるものだが、幕府は事を荒立てないため「乱心」(心神喪失または心神耗弱)と認定し、意知が死亡したため政言に切腹を命じた。

 「営中刃傷記」によると、意知の傷が浅くても確実に殺せるよう、刀身にトリカブトの毒を塗った、と政言は自供している。

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 いずれにせよ、これら文書には、政言をそそのかした黒幕の存在には言及していない。

 ◇幕府高官が結託した謀殺だった? オランダ商館長の主張

 黒幕による謀殺を唱えたのが、事件当時、長崎のオランダ商館長だったイサーク・ティチング(1745〜1812年)だ。ティチングは田沼意次の経済政策に注目し、特に意知について日本を開国に導く若手政治家として期待していた。ティチングの「日本風俗図誌」など海外の関連史料を精査した「田沼意次・意知父子を誰が消し去った?」(秦新二、竹之下誠一著 清水書院)にティチングの記述が詳細に記録されている。

 ティチングによると、幕府の最も高い位にある数名の者が結託し、政言をそそのかして事件を起こしたという。将軍・家治のお気に入りである意次、意知父子をそのままにしておけば、父子が計画している事業が進んでしまう。さらに、成り上がりの田沼一族は次々に幕政の要職に就く。それを阻止するため、反田沼の保守派が画策したと示唆している。

 ティチングは幕政の実情に詳しく、情報源は薩摩藩主の島津重豪だったと推測されている。重豪は11代将軍・家斉の正室の実父であり、家斉の父である治済と親密な関係にあった。

 こうも記している。「父親はもう年を取っているのでまもなく死ぬだろう。しかし息子はまだ若い盛りだし、彼らがこれまで考えていた改革を実行するだけの時間がある。父親から息子を奪ってしまえば、それ以上に父親にとって痛烈な打撃はあり得ないはずだ」。だから意次ではなく、意知をターゲットにしたというのだ。

 「べらぼう」第28回では、意次の甥(おい)で一橋家家老の田沼意致(宮尾俊太郎さん)が「なぜ叔父ではなく山城を」と問いかけたのに対して、治済はカステラをほおばりながら、こう語った。

 「主殿は放っておいても老い先、そう長くはない。嫡男を亡き者にすることこそ、田沼の勢いを真に削ぐこととなる。そう考えたのかもしれぬなぁ、佐野は」。ティチングが見立てた黒幕の思惑を治済に語らせることで、治済が黒幕であることを印象づけるシーンだった。

 ◇周囲は凶行を傍観 意知の死で誰が利益を得たのか

 事件発生時の状況もおかしい。現場の周囲に二十数人いた。政言は背後から意知に声をかけ、意知が振り返ったところで肩を斬り、返す刀で大腿部を斬った。意知は、脇差しの鞘(さや)で防戦するが、政言の勢いに押されて逃げる際に背中を3カ所斬られた。別の部屋に逃げ込んで転倒し股を刺され、刀が骨にまで達する致命傷だった。

 意知が鞘から刀を抜かなかったのは、刀で応戦すれば自らも喧嘩両成敗で処罰されるからだった。

 意知は這って暗がりに身を隠し、見失った政言がぼう然と立っていたところを、大目付・松平忠郷が取り押さえた。この間、周囲にいた誰も意知を助けようとしなかった。

 平戸藩主だった松浦静山(1760〜1841年)の身辺雑記「甲子夜話」にこんな記述もある。「現場に居合わせた人の話によると、佐野が刀を振りあげて切るまでは、対州(松平忠郷)はその背後についていた。佐野が意知を斬り倒したのを見届けて、背後から佐野を取り押さえた」(現代語訳)。忠郷は、政言が本懐を遂げるまで見守っていたというのだ。

 刃傷事件を機に、田沼政権は窮地に追い込まれていく。意知死去から2年後、意次の後ろ盾だった家治が亡くなると同時に、意次は老中を罷免された。治済の息子の家斉が11代将軍に就任すると、治済は意次の政治を批判する書状を徳川御三家に送り、意次の処罰を求めた。最終的に、田沼家は5万7千石から大名の最低ランクである1万石に格下げ。さらに治済は、いとこの松平定信を老中に推挙し、“反田沼”政治のレールを敷いた。

 ちなみに、政言の口上書は事件後、速やかに焼却処分された。「営中刃傷記」や尾張徳川家の文書にある犯行動機は、政言を取り押さえた忠郷が焼却前の口上書を筆写したもので、政言の個人的な遺恨だけでなく私利私欲に走った田沼政治への批判も綿々と書かれている。口上書の存在が「意次、意知=悪」「政言=善」を決定づけ、その後の治済の政治刷新に正当性を与えた。筆写された口上書は都合良くねつ造されたのではないか、という疑いも残る。

 事件後、江戸でこんな落首が詠まれたという。「鉢植えて 梅が桜と咲く花を たれたきつけて 佐野に斬らせた」。江戸の人々は政言を“世直し大明神”と崇める一方で、背後の権力闘争を感じ取っていたのかもしれない。(文・小松健一)

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