解説:「べらぼう」で人足寄場の責任者になった長谷川平蔵 驚くべきビジネス才覚を発揮 松平定信から疎まれる一因にも

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第38回の場面カット (C)NHK
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大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第38回の場面カット (C)NHK

 俳優の横浜流星さん主演のNHK大河ドラマべらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(総合、日曜午後8時ほか)の第38回「地本問屋仲間事之始」が、10月5日に放送され、老中首座・松平定信(井上祐貴さん)が、江戸の治安回復の切り札として人足寄場の建設を計画。火付盗賊改方の長谷川平蔵中村隼人さん)に昇進をちらつかせて、人足寄場の責任者となるよう命じる様子が描かれた。

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 当時、江戸には地方から「無宿人」が大勢流入していた。無宿人とは、人別帳(戸籍)から除籍された人たちのことだ。素行不良で追放されたりすると除籍される。天明の飢饉以降は荒廃した農村から逃げ出す人も多くなった。商品経済が地方農村にも浸透して貧富の差が広がり、真面目に農作業なんてやってられるか、と都市部を目指す人も増えた。彼らも無宿人となって江戸で暮らしていた。江戸学の祖とされる歴史家の三田村鳶魚(1870〜1952年)は当時の江戸を「掃きだめの様相」だったと指摘している。

 しかし、身寄りがない江戸に来てもまともな仕事に就けず、窮民になるか裏社会で生きていくしかなかった。江戸時代の判例集「御仕置例類集」には、火付盗賊改方が捕らえ裁いた事件も多く所収されているが、窃盗、強盗犯は無宿人が圧倒的に多い。

 人足寄場は、“盗賊予備軍”と見られていた無宿人に職業訓練と道徳教育を施し、社会復帰させるのが目的だ。火付盗賊改方と兼務して人足寄場取扱(責任者)となった平蔵は1790年、着工からわずか3カ月で運用を開始した。開設当初は132人の無宿人が収容された。

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 ◇ブランド商品「島紙」が大ヒット 収益増を実現させた“起業家”平蔵

 人足寄場の建設と運営にあたって、平蔵はたぐいまれな才能を発揮した。建設現場は隅田川河口の石川島(現・東京都中央区)。島の拡張工事の際に地盤沈下を防ぐ礎石が必要となった。平蔵は寺社奉行に相談し、無縁仏となった墓石を江戸から集めて礎石として利用した。収容施設、作業施設は空き家となった武家屋敷を譲り受けて解体し、石川島に運んで組み立てるという現代の“プレハブ工法”によって、迅速な建設を実現した。

 人足寄場ではさまざまな職種の職業訓練を実施するとともに、作った製品を販売した。販売収入から経費を差し引いた金額を賃金として支給したが、その一部を強制的に貯金させ、3年ほどで出所する際に当座の生活資金として渡した。

 収容者の賃金を増やしたい。平蔵は一計を案じた。幕府の役所から不要な書類を大量にもらって、すき直して再生紙として販売した。紙の需要は多いため、安価な再生紙は「島紙」というブランドで大ヒットした。

 平蔵は菜種油の製造・販売も計画した。行灯に使う油は菜種油が適しているが値段が高い。庶民は安価なイワシの油を使うことが多かったが、臭いことが欠点だった。菜種油を市価よりも安くすれば「島紙」同様にヒットすると目論んだ平蔵であるが、新たな施設を作らなければならず、実現したのは平蔵が人足寄場取扱を退任した後だった。幕末には年間10万樽の菜種油を生産する、人足寄場の主力商品となった。

 ◇銭相場で人足寄場の運営資金を稼いだ“投資家”平蔵

 人足寄場の運営予算は1年目は金500両と米5000俵(現在価値で合計約2億5000万円)だったが、2年目からは収容者が増えたにもかかわらず予算は40%削減された。火付盗賊改方は捜査費用など持ち出しの多い役職だっただけに、人足寄場の予算不足に対応するゆとりは平蔵にはなかった。そこで平蔵は“財テク”で資金を捻出しようと考えた。

 当時の現金は、主に商人が決済で使う小判(両)と、庶民が日常的に使う銭(文=もん)などがあり、当初は1両=4000文が公定レートだった。しかし、日用品など諸物価が値上がりし、実際には1両が6000文を超える「両高銭安」になっていた。平蔵は幕府の御用金3000両を借り受け、両替商で全額を銭に交換した結果、一時的に銭高になった。

 そして、親しかった北町奉行・初鹿野信興に同席してもらって江戸の商人たちを集め、「銭相場が高騰したので諸物価を下げるように」と要請した。幕府が物価引き下げのために相場に介入し銭高に誘導しているように思わせたのだ。銭高は続き、1両=5300文前後になったときに、平蔵は3000両分の銭を今度はすべて両に交換した。幕府に3000両を返納し、売買差益で儲けた約500両を寄場の運営費に充てたといわれている。

 ◇火付盗賊改方として歴代最長の在任となった背景

 隠密から平蔵の財テクを報告された定信はあきれ果てた。定信は自叙伝「宇下人言」の中で「物価を下げるためと言って銭を買い上げ、功利に走った長谷川を世間は憎んでいる。銭は高くなったが、物価は下がっていない」と平蔵をこき下ろしている。

 一方で、人足寄場の運営は順調だった。「無宿人は少なくなり、江戸の治安は改善した。これは長谷川の功績であるが、この人は功利をむさぼるため、山師とも言われている。しかし、こうした人物でなければ、人足寄場の開設はできなかったであろう。これは幕閣の一致した意見である」(『宇下人言』)。

 山師とは、かつて田沼意次の産業振興政策に利権を見いだした人たちの代名詞としても使われていた。目先の利益を追求する「田沼病」の人々を憎んでいた定信は、平蔵も同類だと断罪したのだが、人足寄場を軌道に乗せた手腕は認めざるを得なかった。

 火付盗賊改方としても平蔵は目覚ましい活躍を見せていた。人足寄場開設の1年前には、約600人の配下を擁して関東一円を荒らし回った広域強盗団の首領、真刀(しんとう)徳次郎を捕縛し、一党を一網打尽にしたことで幕府から表彰され、平蔵の名声は高まった。町奉行所が手をこまねいていた“ならず者”も次々と摘発し、庶民は「町奉行よりも頼りになる」と平蔵を絶賛した。

 「有能であるが、人物はよろしくない」という定信の平蔵評は、定信失脚(1793年)後も幕府高官に共有された。平蔵は1792年に人足寄場取扱を退任したが、その後も火付盗賊改方として働き、歴代最長となる約8年に及ぶ在職中の1795年に病死した。

 その背景には、平蔵を出世させたくない→しかし盗賊摘発の実績は素晴らしい。庶民も平蔵を慕っているので、火付盗賊改方を解任できない→このまま平蔵に火付盗賊改方を務めてもらおう、といった思惑が幕府上層部にあったように思われてならない。

 平蔵が心血を注いだ人足寄場はその後、無宿人だけでなく犯罪者も収容。明治以降は名称変更と移転を重ねて、現在は府中刑務所(東京都府中市)になっている。(文・小松健一)

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