解説:「べらぼう」で長谷川平蔵が捕縛した葵小僧 審理を打ち切って処刑、記録も廃棄? 謎の多い“一件落着”

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第39回の場面カット (C)NHK
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大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第39回の場面カット (C)NHK

 俳優の横浜流星さん主演のNHK大河ドラマべらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(総合、日曜午後8時ほか)の第39回「白河の清きに住みかね身上半減」が10月12日に放送され、終盤で火付盗賊改方・長谷川平蔵(中村隼人さん)が、先の将軍の「ご落胤」と偽って商家を次々と襲った盗賊・葵小僧を捕縛するシーンが描かれた。葵小僧は実在した盗賊で、史実でも平蔵が召し捕った。だが、記録はほとんど残されておらず、謎の多い事件だ。

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 ◇「葵の御紋」の行列を仕立てて商家を物色 江戸は厳戒態勢に

 寛政3(1791)年4月ごろ、江戸で商家が次々と襲われ、金品を奪われただけでなく、家人の女性が乱暴される事件が相次いだ。盗賊の首領は「葵丸」を自称。徳川家の「三つ葉葵」の紋付き衣装を着て押し入った。葵丸は葵紋の入った立派な駕籠(かご)に乗り、配下の者たちは供の侍に変装。大名行列のように市中を練り歩き、ターゲットの商家を物色していた。

 妻や娘、奉公人の女性が乱暴されたため、体面を重んじて被害届を出さない商家が多かったようだ。しかし、事件はうわさとして広まり、世間では犯人を「葵小僧」とささやき合い、やがて松平定信ら幕府上層部の耳にも届いた。

 葵小僧探索には当初、平蔵ともう一人の火付盗賊改方が指揮を執った。火事の多い秋から春の間は毎年、助役(すけやく)の火付盗賊改方が任命されることになっており、この年は先手鉄砲八番組頭の松平左金吾が助役を務めていた。それでも捕まらない。そこで幕府は江戸の治安維持にあたる先手組の総員に“治安出動”を命じたが、厳戒態勢の中でも葵小僧は犯行を重ねた。

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 ◇平蔵の“ある識別能力”が葵小僧摘発の決め手に

 葵紋に対する人々の「畏怖の念」を利用した犯罪だった。葵紋の威光について、広島藩最後の藩主だった浅野長勲(1842〜1937年)が面白いエピソードを語っている。全国の大名家の屋敷があった江戸では、往来で大名行列同士がすれ違うことは頻繁にあり、前方に葵紋の行列を見かけると、逃げるように脇道に迂回したという。その行列が徳川御三家だった場合、駕籠を降りて頭を下げるのが面倒だったからだ。

 大名でもそんな状況だから、火付盗賊改方や先手組の役人が、葵紋の行列を取り囲んだり、尾行したりすることには気が引けた。もし本物の葵紋の行列だったら……。そう思わせるほど、葵小僧の行列は立派だったという。やがて平蔵が葵小僧の捕縛に成功した。

 平蔵がどうやって偽の葵紋行列と見抜いたかは明らかではないが、こんな逸話がある。平蔵はかつて江戸城で「進物番」という役目に就いたことがある。大名から将軍家への献上品を扱ったり、大名が居並ぶ儀礼の場に出たりする仕事だ。平蔵は家紋で大名家を識別できた。また、葵紋にはいくつものデザインがあって、将軍、御三家、徳川・松平一門の大名家でそれぞれ微妙に違っているが、これらも平蔵は識別できた。ある夜、市中で見かけた行列の葵紋を不審に思ったのが逮捕のきっかけになったという。

 捕縛後、事件処理は奇妙な展開をたどる。取り調べは途中で打ち切られ、葵小僧は逮捕から10日が過ぎた5月3日に処刑された。死刑判決としては江戸最速の“一件落着”だったが、それ以外の記録は残されていない。

 ◇審理打ち切りは被害者のプライバシー保護のため?

 迅速な事件処理について、歴史家の三田村鳶魚(1870〜1952年)は「長谷川平蔵の取り計らいだと思う」と推論している。要点はこうだ。葵小僧は押し入った商家で乱暴した女性たちのことを得意げに供述した。被害届は出ていなくても容疑者の供述に基づいて被害者調書を作成しなければならないのは、江戸時代も同様だった。

 しかし被害者たちに事件を思い出させるのは忍びない。平蔵は幕府に相談して取り調べを打ち切って結審し、尋問記録を廃棄したというのである。池波正太郎の「鬼平犯科帳」にも葵小僧を題材にした「妖盗葵小僧」(文春文庫第2巻第4話)という作品があり、三田村の推論に従って物語を展開している。

 しかし、被害者のプライバシー保護という理由は弱い。のちに江戸を騒がせた鼠小僧次郎吉(1797〜1832年)は100カ所近い大名屋敷に忍び込み、3121両(現在価値で約3億1210万円)を盗んだ。だが、一件も被害届は出ていなかった。屋敷に盗みに入られたのは面目丸つぶれ、恥だったからだ。ひょんなことから町奉行所が往来で捕らえた男を尋問すると鼠小僧であることを自白。町奉行所は、供述に基づいて大名屋敷を一軒ずつ尋ねて説得して事情聴取した。徳川御三家、井伊家(彦根藩)などそうそうたる家柄の大名屋敷からも被害状況を確認した。

 商家(町人)のプライバシーを守って被害者聴取をしなかったという葵小僧事件と、大名家の名誉、面目をはねつけて被害者聴取を行った鼠小僧事件。捕縛から10日後に刑死した葵小僧と、3カ月後に刑死した鼠小僧。二つの事件処理の釣り合いがとれないのである。葵小僧の処刑を急ぎ、記録を残さなかったのは別の理由があったのではないだろうか。

 ◇松平定信が記した葵小僧の正体 やはり謎が残る

 松平定信は自叙伝「宇下人言」の中で、この頃の出来事して「盗妖」を記述している。「江戸に“盗妖”が出没し、大変な状況になっていた。一晩に何軒もの家に賊が押し入った。犬が吠えると、人々は盗賊が出たと思って半鐘を打ち鳴らした。その鐘の音でまた騒ぎになり、眠れぬ夜が続いた。世間があれこれうわさしあって、そのうわさが広まり、世情が穏やかでなかった。これは稀有なことだった。そのうちに長谷川なにがしが大松五郎という男を捕らえた。この男はこの1〜2カ月の間に50数カ所も押し入っていた」

 当時、江戸では盗賊事件が相次いでいたので、「大松五郎」が葵小僧と同一人物だと断定できないが、状況などから大松五郎=葵小僧とする見方が有力だ。定信によると、大松五郎はもとは博徒だったが、困窮して盗賊になったという。事件を受けて、博徒の逮捕を強化して盗賊になる芽を摘むことを幕閣で決めたとも記している。これ以上、この事件については触れていない。

 葵小僧を扱った時代小説に「じぶくり伝兵衛 重蔵始末(二)」(逢坂剛、講談社文庫)がある。松平左金吾率いる助役の火付盗賊改方与力として葵小僧探索に加わり、後に探検家として有名になった近藤重蔵(1771〜1829年)が主人公だ。葵小僧の正体を含めて事件記録が残されていない背景を「鬼平犯科帳」とは全く違った視点でスリリングに描いている。葵小僧の謎は深い。(文・小松健一)

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