黒川文雄のサブカル黙示録:クリエーター至上主義の時代

 15年前のこと。今では考えられないことだが、当時、ゲーム業界では、関係者が雑誌などのメディアへ顔出しをするのは“禁止”だった。理由は簡単だ。当時ゲーム産業は沸点寸前で、メーカーはかなりあからさまにクリエーターの「引き抜き」を行っていた。中には、芋づる式にチームごと移籍というものもあった。

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 また、情報解析(プログラムの解析)が頻繁に行われていた。中にはある音楽系ゲームの筺体(きょうたい)が出荷されたと思いきや、ライバル会社に持ち込まれ、その後プログラム解析が行われ、その後にあるべきアーケードに出荷されたという逸話もある。そんな状況では、ヒットゲームを作ったスタッフを公表することは、「引き抜き」候補を案内しているようなものだ。

 そんな時代の93年、私はセガ・エンタープライゼス(現セガ)に入社した。アーケードゲームを開発する部署「AM2研」専属のパブリシストだった。パブリシストとは広報記事関係を取りまとめ、その作品や企業(チーム)のプラスになる記事を露出させるネゴシエーターのような存在で、ハリウッド映画のエンドロールには必ずクレジットされる存在だ。

 さて、AM2研でやったことは宣伝(有料)とパブリシティー(無料)の広範にわたった。顔を出さないクリエーターを露出させるインタビューをはじめ、飲料メーカーとのタイアップ、酔拳や八極拳(「バーチャファイター」のシュン、アキラのモーションキャプチャー用)の使い手を探す仕事もあった。

 当時の話になると「黒川はクリエーターを世に出し、その評価を問うた。そしてゲーム業界に新しい宣伝的な切り口と、クリエーターに対する世の中の認知を作りだした」というお言葉をいただく。うれしいが、当時そんな切り口でアプローチする宣伝マンがいなかっただけで、いつかは誰かがやったことだろうし、それが偶然自分だったのにすぎない。しかし、もう一つ言われるのは「クリエーターを“増長”させた」ということだ。つまりクリエーター至上主義の始まりだ。

 発想は簡単だった。例えば「スピルバーグの新作」と言えば、観客の期待は膨らむだろう。それと同じものをゲームクリエーターに添えたらどうか?というものだ。結果を言えばそれは成功し、無名だったクリエーターたちに光を当てることになった。今では彼らがゲーム雑誌に出ることが当たり前。さらに自己演出をし、メディアをうまく活用する人も多い。

 だがクリエーターの浮き沈みも目立つ。産業として成長し、成熟する時代はよかった。しかし、既に産業としてパッケージビジネスは踊り場になった。自らの売り時を逸した人もいて、スマートフォンのアプリなどで再生のチャンスを狙う姿もあるが、いずれにせよゲームクリエーター村の社会では通用したことが、他の社会で通用するかは別問題だ。その結果は、ユーザーの支持や評価でいずれ明らかになるだろう。

著者プロフィル

くろかわ・ふみお=1960年、東京都生まれ。音楽ビジネス、映画・映像ビジネス、ゲームソフトビジネス、オンラインコンテンツ、そしてカードゲームビジネスなどエンターテインメントビジネスとコンテンツの表と裏を知りつくすメディアコンテンツ研究家。ブログ「黒川文雄の『帰ってきた!大江戸デジタル走査線』」(http://blog.livedoor.jp/kurokawa_fumio/)も更新中。

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