黒川文雄のサブカル黙示録:「ぴあ」の時代 娯楽情報の集約と拡散

 総合情報誌「ぴあ」が7月21日発売号で休刊した。「休刊」だが、それが復刊することは非常にまれだ。ここ数年、紙媒体を取り巻く環境の厳しさが取りざたされてきたが、今回の休刊もそれを裏付けるものだ。

ウナギノボリ

 「ぴあ」の創刊は1972年。当時小学6年生だった私は、そのころの「ぴあ」を知らない。高校生になって色気付き、女の子を誘って映画を見ようというときに、四つ違いの兄がもっていた「ぴあ」か「シティロード」を見て、思案したものだった。ちなみに「シティロード」は月刊誌で、情報のタイムリーさでは「ぴあ」が上だったように思う。

 「シティロード」も既に今の若い世代にとっては「なんだそれ?」という雑誌かもしれない。個人的には「シティロード」のほうが情報が読みやすかった。例えるなら「ぴあ」は(量販店の)「ドン・キホーテ」で、「シティロード」は「セレクトショップ」のような存在だ。個人的なことで恐縮だが、「シティロード」編集部の仕事でニューヨークのガイドマップ制作の手伝いをしたことがあった。個人的な旅行でニューヨークに行ったのだが、当時の勤めていた会社の先輩が、新規事業で始めたガイドブック作りを無理やり手伝わされた。初めての海外旅行がニューヨークだった。

 このとき、タイムズスクエアの映画館の前でナイフを持った強盗に襲われる……という忘れらない思い出がある。映画館の支配人がショットガンを持ち出して強盗は退散し、その後で警察が来て事情聴取のため署に行った。その後も海外には何度も渡航したが、いまだにこの事件を超える経験がない。

 話を戻そう。「ぴあ」の情報の集約ぶりや、はみだし情報(雑誌の誌面の隙間(すきま)を埋めるようなクチコミ情報)には現在のインターネット的な要素があり、ファンも多かった。80年代後半に映画宣伝マンだった私は、巻頭の映画星取表に自社の配給作品を取り上げてもらうことが最大の課題だった。毎週のように麹町の編集部に通ったものだ。

 編集部には独特の雰囲気があり、大手の映画会社の作品であっても、映画の内容の出来で取り上げ方が変わるという、フェアな価値観にあふれていた。また、「ぴあ」主催の「ぴあフィルムフェスティバル」をへて映画監督や役者になったという人も多い。つまり単なる情報誌では終わらず映画、演劇、娯楽の文化創造面での貢献度は大きかった。

 しかし、「ぴあ」も時代の流れにあらがえなかった。既に90年に創刊された「東京ウォーカー」のころにその萌芽(ほうが)はあり、情報の取り方や見せ方はどんどんバラエティー化し、細分化され、インターネットの普及でそれは一層進んだ。

 39年の長きにわたって娯楽情報を発信した「ぴあ」。ノスタルジーで語るわけではないが、そこには映画、音楽、コンサートなどの情報は集約することが難しい時代から、現在に至るまで娯楽関係の情報をリードしてきた。既に時代は「集団のメディア」から「個のメディア」へ移り変わった。その中で役割を全うしたといえるだろう。ありがとう「ぴあ」。

 ◇著者プロフィル

くろかわ・ふみお=1960年、東京都生まれ。音楽ビジネス、映画・映像ビジネス、ゲームソフトビジネス、オンラインコンテンツ、そしてカードゲームビジネスなどエンターテインメントビジネスとコンテンツの表と裏を知りつくすメディアコンテンツ研究家。ブログ「黒川文雄の『帰ってきた!大江戸デジタル走査線』」(http://blog.livedoor.jp/kurokawa_fumio/)も更新中。

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